天保山沖軍艦御親閲

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慶喜大坂を去って江戸に戻る

戊辰の役、大坂に在りたる徳川慶喜は、会津、桑名二藩の兵を率い、大挙入京せんとするや、薩長二藩は、慶喜は是れ明らかに朝旨を拒むものである、既に朝命に抗し散て朝敵の名を辭せざる彼幕軍を決して入京せしむべからず、我等が徳川方の入京を防止するに方りて彼尚ほ肯んぜずして抗拒するに於ては、断然朝敵として之を撃つの外なしとし、薩、長、藝三藩の兵は、伏見、鳥羽の両口に配置され、極度の緊張を以て徳川勢の入京を待ちつつあったが、時は正に明治元年(慶応四年)正月三日、朝敵の大軍既に至るの報あるや、鳥羽口を守りたる官軍は決然砲を発したので、伏見口の兵また之に応じた。暫くして開戦の幕は切って落とされるや、鳥羽伏見の二道に殺到せる賊軍は、官軍の峻拒抗戦に会いて激戦は慈に展開された。
 会は伏見に兵火起り、賊軍また決河の勢を以て進み、官賊双方入り乱れて、激戦乱闘修羅の巷を現出するに至った。面かも薩長を初めとし官軍は防戦之に努め、賊軍は遂に撃退されたのであった。而して翌四日軍事總栽仁和寺宮嘉彰親王は征討總督に拝せられ、節刀を賜はり錦旗を飜して進発され、敗残の徳川勢を追撃した。鳥羽、伏見の戦ひ、一敗地に塗れたる徳川慶喜は大阪城をも守らず、正月六日軍艦囘陽號に搭乗し身を以て東に走ったのであった。是に於いて朝廷にては翌七日を以て徳川慶喜の罪悪を聲言し断々乎として征討の大号令を天下に発布した。次で九日大将軍嘉彰親王、薩長の兵に護られて大阪に赴き近畿稍々平定を告ぐるに至った。超へて正月十五日天皇元服を加へさせ給ひ大赦の詔を発せらる。
 三月十四日天皇南殿に御し公卿百官を率ひて天神地紙を祭り、五箇条の御誓文を天地神明に誓はせ給ふた。斯くて此の五事の御誓文を弘く御発布になった。是の日官軍は徳川氏征討の軍を進めて江戸高輪に至る。二十日再び慶喜の罪状を布告した。

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