宮古沖海戦

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陸運米國の旗章を揚げて遁る

曩に明治元年四月官軍堂々江戸城に入るに迨び、舊幕府の海軍副総裁であった榎本鎌次郎は極度に憤懣し、当時品川灣頭に在りたる軍艦開陽以下八隻を率いて北海に走った。榎本は嘗て久しく和蘭に在りて海軍の戦術を修得したので、徳川氏麾下の士は多く之に属し、官軍の方でも榎本は宛然一敵国の観を呈したのであった。既にして榎本等は函館に着し、松前徳廣を遂ひ、函館、江刺、松前等を悉く占領し、五稜郭を以て其本據とした。而して榎本を總栽に、荒井郁之助は海軍を督し、大鳥圭介は陸軍に長とし、永井尚志は函館奉行の職に就いた。更に榎本等は政府に書を寄せ徳川氏の一族を奉じて蝦夷地を開拓し、永く北門の干城たらんことを上奏したが、朝廷は之を斥け答へず、而して翌二年春季氷雪の解消を期して大に函館を征することとなった。果然二年三月に至り官軍は大挙して、函館に占拠し居る榎本等の賊軍を征すべく海陸並び進んだ。斯て官軍は新たに購入せる所の軍艦甲鐡以下、春日、陽春、丁卯、飛龍、豊安、戊辰、晨風の八隻を編成し、中島四郎、赤塚源六、谷村小吉、山縣久太郎、岡敬三郎、入江良之進、小山辰彦、西田元三郎等之を率い、先づ発して南部の宮古港に入った。然るに賊軍の荒井郁之助は官軍の甲鐵を途に奪はんと謀り、回天、蟠龍、高雄の三艦を率いて函館を発したのであった。
 此時会ま海上颶風の為めに妨げられ、前記賊軍の三艦は離散し、僅かに回天の一隻のみ、官軍の目を欺く為め米国の旗章を掲げ、三月二十五日疾く馳せて宮古港に入った。之を見たる官軍は米国軍艦と思惟して之に対して深く備へなかったが、回天は近接するに及び、忽ち旗章を改めると共に、巨砲を発して官軍の甲鐡艦に迫った。事不意に出たので官軍は甲鐡は発砲するの暇なく、賊軍は身を躍らせて甲鐡の艦内に飛び入ったので艦長中島四郎は矢庭に槍を揮つて之を斃した。斯る間に官軍の諸艦は繞り圍んで回天を砲撃したので、回天は支ふる能はず辛ふじて宮古湾を脱出して遁れ去った。

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