有井庄司の墓
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四国の観光>高知県の観光>高知県の文化財>有井庄司の墓
黒潮町有井川字長生前
元弘二年三月、時の執権北条高時の専横により後醍醐天皇の第一皇子尊良親王は、土佐の国に配流されることとなり、親王は道中佐々木判官時信に警固され、為明中将らを随え八重の潮路も恙なく、同年三月下旬お船は遠流の地土佐畑の庄にお着きになった。やがて王無の浜で、奥湊川領主大平弾正らに迎えられた、尊良親王の配流中赤誠こめて中節を尽くした南朝忠臣有井三郎左衛門豊高の墓である。庄司は初め、奥湊川大平の館で弾正と共に宮を警護していたが、天下の情勢は日々官軍に不利となり、北条方の重圧監視又きびしく、弾正と相計り宮を奉じて大平の館より北東八km余の佛が森中腹の行在所にお遷ししたのである。
こうしたご不自由なご日常は余りにも畏れ多く三度目の行在所を、有井庄米原の里にお遷ししたのであった。やがて弟宮護良親王の令旨を奉じた官軍各所に決起し北条氏も遂に滅亡王政古に復し、親王もめでたく都へ御帰還するに当たり、有井庄司を伴って帰ることを切に望まれたが、庄司は老齢の故でお断りしたのでやむなく宮は、大平弾正の息大膳のみを伴われ帰還されたという。やがて庄司病死の訃が宮のお耳に達すると、宮はいたくお悲しみになり、御心こめた供養の塔を八反帆の官船に満載して庄司の墓に手向けられたという。
(看板引用)
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