薫的和尚A

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高知県内の伝説

薫的様

薫的様は約三百年の昔、寛永二年一月に幡多の中村に生まれた。父は土佐一条家の一族、池田中納言薫友で母お万は中村在崩岸の百姓の娘だった。狩の帰り、お万の家に立ち寄って茶を所望したのがきっかけで、二人の間にロマンスが生まれ、ほぼ実説とされている物語が始まるわけ。「高い山から谷底見れば、お万可愛いや布さらす」と里人達す相思の仲をはやした歌は、今に傅えられている。
 八歳で高知市洞ヶ島、福泉寺の牛的和尚に拾われ、佛門に入った。寛文十年の秋、山内二代藩主忠義の戒名をめぐって洞ヶ島瑞応寺の住職だった薫的様は山内家の菩提寺、真如寺の戸谷和尚と論争、不敬の罪に問われ、翌年正月十日朝、四十七歳で獄中に憤死したと云われる。高知城をはったと睨み据え、座禅のまま入寂したらしいその一瞬、雷鳴はとどろき、大暴風雨が三日三晩も続いて地上一切の汚れを洗い清めたそうだ。戒名で論争と云っても、結局は時の権力と結びついた御用宗教に反抗、その犠牲になったのだろうが、過酷な封建藩政にがんじがらめにされ、苦しんでいた庶民達には、信念に生きた和尚の姿は、真にお釈迦様の再来と見えたのだろう。今日に至る庶民達の尊敬の源はこの辺りに発しているらしい。薫的神社の宮司中地康展氏は「封建社会にわずかばかり残っていた宗教の自由を守り抜こうとして犠牲になったのだ」と次のように云っている。
 長年厳しい修行を経て若くから高僧と仰がれた人が、片々たる戒名の文字のため、我を通して生命を捨てようはずはない。しかも処刑時の藩主、山内忠豊は、学問の師に当る人だ。結局「藩の国これと相容れぬ思想の持ち主」だと、いわば逆罪に問われたのだ。佐倉宗五郎は貧しい百姓のために免税闘争をして刑死し。薫的様は宗教を封建政治の暴圧から守り抜く。純粋な信念を曲げなかったので倒されたのだ。当時は丁度西欧ではルネッサンスの時期だ。たとえ薫的様がルソーやカルヴィンらと同じ思想を持合せていなかったにせよ、人間復興への情熱でたった一人封建君主へ抵抗した意気、時代が時代だけに感銘も一入深い。偉人と称せられる人には傅設はつきもの、薫的様にまつわる話は数限りない。実説が傅設に隠されて、今日の薫的様は偶像化されてしまった観さえある。
@瑞応寺の檀家の武士の娘、お雪さんから燃えるような恋をされた
A周防の国、碧雲寺で一つ目化け物を退治た
 雨ごいをして北陸六国に雨を降らせ、農民を飢饉から救った話・・・。後世の脚色も加わって、古今を通じ土佐一番の逸話の持ち主。

薫的和尚A

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