矛ヶ峰A

トップページ高知県の観光ジャンル別高知県の観光高知県の伝説・昔話>矛ヶ峰

高知県内の伝説

虚空蔵山をなぜ矛ヶ峰と云うか、次の話がある。二千百余年の昔、奏の始皇帝の重臣といわれた徐福という男があった。栄華の限りを尽くし、人間の持つあらゆる欲望をほとんど満足させた始皇帝が最後に求めたのは「不老不死」の薬であった。「廣い世界だ。どこかにその様な薬もあるはず」と明けても暮れても家臣をつかまえてその話ばかり「神様みたいな天子様がおっしゃることだ。不老不死の薬だってきっとあるだろう」家臣はみなそう考えたし、第一書物のもそのことがでていた。新羅王は「われ聞く、東に神国あり日本という」といい、白栄天も「中に三の神山あり、山上多く不死の薬を生ず、これを服すれば羽化して天仙となる」と、新楽府の中で歌ったことは当時、中国中に知れ渡った。そのころ「はるかな東海のかなた、常に白雲の漂う桃源の地にほうらいと云う霊山がある。不老不死の薬草はそこに生えております」と耳寄りな話を持ち出す者が現れた。始皇帝の目は輝いたが、誰一人行ったことのない国だ、どのような危険があるかも知れぬとあって、さすがの始皇帝でもオイソレと探検行を命ずることをためらった。その時皇帝へ断行を進言したのが徐福だった、皇帝はかれをリーダーに指名した。往復は何十年、もっとかかるかも知れぬと徐福の選んだ険員は少年・少女ばかりだった。大船数隻に五千人以上が乗組み、金銀宝石、五穀に各種の器具も満載した。その準備だけで九年の歳月が流れ去ったという。史記、海内十州記によると、出帆したのは丁度考霊天皇の七十二年であった。風のままに東へ向かっての航行は困難を極めた。一年あまり費して日本へたどりついた。息もたえだえコジキのような風体だった。船も辛うじて浮いているだけで、バラバラになりかけていた。浜辺へあつまった漁師に聞くと「土佐の浦曲だ」といった。ほうらいは驚くほど間近にあった。それは虚空蔵山だった。一行は山へ登った。つかれもしばし忘れて山中を歩きまわって不老不死の薬草を探した。しかし谷川の岩陰、山の落葉の中までかきわけてみたがとうとう一本も見つからなかった「そんな薬はないのだ」と知った時、これまでの困難、両親や妻子への情が一時にどっとこみ上げて来た。だれからともなく山頂へあつまった。もたを言う元気もなく、一同は故郷の想いにうちひしがれ、水天万里の故国をしのんでホコを高くかざし号泣したという。徐福らは持参の金銀財宝を山頂へ埋め山を降りた。これが矛ヶ峰の名の由来である。

矛ヶ峰A

四国の観光へ戻る  高知県の観光へ戻る 
高知県の海岸線へ戻る ジャンル別高知県の観光
高知県の主な観光地へ戻る 高知県の伝説・昔話へ戻る