横倉山B

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高知県内の伝説

もう一つの傅説では、天皇はいの町本川を経て仁淀川町椿山へ行在所を造られたとある。ある日、敗残兵追及の源氏武者二人は池川で川の中に朱塗のワンが流れているのを見付けて、椿山までふみこみ、安心しきっていた平家の一族を驚かせた。この二人はすぐさま斬られたそうで、その墓が現存している。危険を覚え、間もなく天皇はさらに西の名野川村へ向かった。ここでは村からボイコットされ、もっと西の別府村(高岡郡)でやっと安住出来たといわれる。文治三年三月近く波倉山の山頂(標高千百余m)に本格的な行在所も完成し、そこへ永住と決められたそうである。行在所の周囲には平和盛以下、重臣の家二十五軒がならび「都」と称した。詩歌管絃の会、ケマリの会が催され、武臣は弓、馬劍の修練をおこたらなかったといわれる。かくて十六年の歳月が流れ、天皇二十三歳の正治二年八月八日、同所で永眠された。横倉山には的堂、中屋敷、畝火山など二十もの地名があり、いづれも郡の遺跡とされている。天皇は駒ヶ奈路という山腹に埋められ、その霊を祭神とする御嶽神社は山頂にそそり立つ奇岩の上に鎮座して七世紀半が過ぎ去った。

横倉山B

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