忠犬「赤」A

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高知県内の伝説

井ノ口の里は高さ四百メートルばかりの妙見山という山の真下にある。電灯もなかった頃、村の子供は親から「コエ刈りして来い」とよくいわれたものだ。積肥用の雑草、木あつめのことである。今から一世紀以上も昔、岩崎邸の近所に横山三平という百姓がいた。二人の子供があり、兄を寅次、弟は乙次とよんだ。弘化二年師走のなかば、十歳の寅次は七歳の乙次をつれ妙見山へコエかりに行った土人が兄弟のようにかわいがっている土佐犬の赤もむろんお伴だった。土佐犬といっても闘犬ではなく、古くから純日本種、耳がピンと立ち、体は小さかった毛並みは名の示す通り赤、夕方ーー小さな子供の体には持ち切れないくらいコエをかって兄弟は山道を下りはじめた。やがて山の難所といわれる「大阪」へさしかかった。そのころの大坂は一面赤土、草木もまばらですぐ横には目もくらむ絶壁が口を開いていた。重荷をかつぎ切れず乙次はちょっとしたはづみに轉んだ。一瞬、血の気をうしなって立ちつくした寅次の足下を鉄砲玉のようにすり抜けたのは赤であった。すさまじい勢いでまさに奈落の底へ落ちようとする乙次のエリへかみついた。総毛をさか立てて自分より大きい乙次を引きもどそうと満身に力をこめたがムダだった。小さな二つの体はずるずるとすべり始め、手の施しようもない、寅次は目の前が真暗になった。その時何という幸運か、赤の体がツツジの古木にひっかかって止り、寅次ははっとわれに返った。気丈な性格の子だったらしく、彼は素早く帯をといた荷物のナワも外してつなぎ合し木の古株へしばりつけ、それを傳って乙次をかかえあげることに成功した。赤も救った。小さな体で乙次をはなすまいと必死にもがいた赤の体は目もあてられぬ位になっていた。全身血にまみれ、毛は抜け、皮は破れ、はく息は火のように熱かった。それでも赤はうれしそうに尾をふり、二人のまわりをはねまわって喜んだ。二人の話に父三平は言葉もなく、なきながら赤にほおずりするのがやっとだった。山頂の妙見様へ早速お礼参りに登った。会う人ごとに赤の手柄を吹聴した。せまい田舎のこととて、話は間もなく、隣りの土居村でもだれ一人知らぬ人はなくなった。土居には山内藩の五藤家老が住んでおり、赤のうわさにひどく感激、三平へぜひ譲ってくれと申し込んだ、そればかりはと、かぶりを振る三平との間に交渉の末、一ヶ月交代で飼おうと決まり、赤は年々扶持米を与えた。「大した犬だ」とと評判は高まり、連日同家は押しよせる見物人でうづまり、やがて六年後の嘉永三年春、赤はついに死んだ。五藤家は藩の功をたたえた文を作ってもらい、それを石に刻んで墓をたてた。

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