鷄足山 金倉寺

トップページ高知県の観光四国霊場四国霊場八十八ヶ所>鷄足山 金倉寺

四国霊場第七十六番札所

鷄足山 金倉寺(けいそくさん こんぞうじ)寶鐘院

御本尊:薬師如来(座像二尺八寸智證大師作)

御詠歌:誠にも 神佛僧を 開くれば 真言加持の 不思議なりけり

所在地:香川県善通寺市金蔵寺町1160

縁起:當山は光仁寶龜五年和氣道麿長者(法名道善)「景行天皇の皇子武國凝別命第十四代の後胤にして即ち智證大師の祖父なり。」天平年間原田の中の郷に移住す。自刻の彌陀像を以て頂上佛と爲し一宇を營み名づけて自在王堂と云ふ、道麿大同四年十一月三日壹百十二歳にして逝く長子宅成(智證大師の嚴父)父の法名を取って道善寺と名づけ官寺に爲さんと欲し、漸く仁壽元年十一月、息圓珍を護持の長吏として田園三十二町を下賜し勅願寺に勅許ありたる綸旨を賜はる。天安二年九月智證大師唐より歸りて道善寺に寓住す、此處は父の館舎であり自分の産土なれば菩提の爲且つは記念の爲めに館舎の傍に此の寺を移し規模を宏大にせんと欲し、唐の青龍寺を模範として伽藍の造營を企て四ヶ年にして落成、醍醐天皇延長六年正月勅ありて道善寺を金倉寺と改む。人皇六十六代一條天皇詔して永暦二年に御修營あり、後弘安四年蒙古賊襲来せしかば勅ありて降伏の法を修せしむ、斯く隆盛を極めしも建武二年賊將細川定禅一度國内に入るや人民を誘惑して社寺の領地を掠奪し僧徒離散し堂宇頽廢す。天文六年に至り遂に兵燹に罹り堂宇悉く灰燼に歸す、幸にして本尊及重寶等其の災厄を遁れたれ共漸く茅堂を作り雨露を凌ぐに過ぎず、此の時より眞言宗の寺となる。其の後天臺門主道晃法親王より本寺は智證大師御誕生の霊蹟なるを以て、他の門末に擢んで復古に付き優遇を蒙ると雖も天海大僧正(慈眼大師)の御觀發もあづかつて力ありしことを忘る可からず。以來代々の住僧中覺芳法印、忍奥法印の如き出格の碩學者出で大に宗風を發揚せるのみならず法親王の御師範と仰がれ殿中に常住傅育の大役を命ぜらる。盈奥法親王の執奏に依り、光格天皇は格別の御思召を以て本寺に特に築地筋塀を勅許せられ其の經費は法親王より御下賜せらる、又實成僧正の如き傑僧出で一躍御歸依格に昇進せしめらる等無上の光榮に浴しつつ明治維新に至り寺領は返上仰せ付けられ住僧も度々交迭し衰頽を極めしも明治七年秋俊順法印長尾寺より轉住し鋭意奮勵寺運を輓囘す。明治三十一年第十一師圑の創設さるるや軍神乃木希典將軍當初の師圑長として同年十月三日着任され同三十四年五月二十四日まで約四ヶ年間本寺客殿に寓居せられ其の間幾多の逸事逸話のありしことは世間己に周知せらるる處なり、將軍歸京に際し自筆の目録を添へ日常使用の什器等本寺に寄納せらる。現住職松田俊雄師は當時將軍の聲咳に接し且哀願厚かりしため將軍殉節後敬慕の念止まず始終追崇囘向怠らざりしが大正十年九月十三日將軍十週年に銅像建設の議起り同十一年九月十三日除幕開眼式を擧げ現在の所に建立す。

金倉寺本堂

鷄足山 金倉寺

金倉寺大師堂

鷄足山 金倉寺

金倉寺山門

鷄足山 金倉寺

鷄足山 金倉寺   鷄足山 金倉寺

四国の観光へ戻る  高知県の観光へ戻る