天保山沖軍艦御親閲

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大阪行幸海軍操練天覧

翌二十一日車駕親征の為京都を発せられ、二十三日大阪に至り本願寺を以て行在所と定められた。斯くて同月二十六日車駕大阪の海口として知られたる天保山沖に行幸せられ、玆に海軍の操練を天覧あらせられた。。即ち是れ官軍の軍艦御親閲である。蓋し我国に於ける最初の観艦式である。
 本図は、即ち当時大阪天保山沖に於ける御親閲の状況を描けるものであって、防佛として、当日の情景を窺ふことが出来る。
因みに、我が帝国海軍の創立されたのは、徳川幕府の末期に属し、今日より見れば洵に貧弱なるものである事は言ふまでもない。当時幕府及び諸藩の所有したる軍艦といふべきものは、大抵木造の帆汽両用艦であった。其中に於いても特筆すべきものは、甲鐡(是は後に東艦と改名した)龍驤の二艦であった。此の二艦は共に鐡帯を施し、甲鐡艦は排水量一千三百五十八噸、機関は一千二百馬力で、米国より購入したもの、龍驤艦は二千五百三十噸で、八百馬力である。是は英国で製造したものと言はる。其後明治維新となり、明治五年に兵部省が廃止せられ、海軍省が設置された、以後に、英国の造船会社に注文して製造せしめたのは、扶桑、金剛、比叡(共に前代のもの)の三艦で、明治十一年に英国から来着し、我が帝国海軍に新たなる勢力を加ふる事になったのであった。

天保山沖軍艦御親閲

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