軍艦赤城、西京の奮戦

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日清戦役

艦長坂本少佐の戦死

明治二十七年九月、我が連合艦隊司令長官伊東祐享中将は其艦隊を本艦及び第一、第二、第三の遊撃隊に分ち、本艦は陸軍を護送し、同月十二日仁川沖に達し、同十四日に、第二遊撃隊と、報知艦八重山とを仁川に留め、伊東司令長官は自餘の艦隊を率いて十五日大同江に達した。十六日には松島、千代田、巖島、橋立、比叡、扶桑の本艦隊六艦と、吉野、高千穂、秋津洲、浪速の第一遊撃隊四艦、及び赤城艦と西京丸との合計十二隻を率いる、大同江を発し十七日海洋島を経て大孤山沖に至った。此時敵艦定遠以下十二艦と六隻の水雷艇より成る清国北洋艦隊の精鋭を盡したる艦隊に遭遇し、玆に黄海に於ける大海戦の幕は開かれた。我が旗艦松島より「戦闘の位置につけ」との號令下るや、吉野、高千穂等の四艦は前鋒となり、松島以下六艦は本隊となりて、西京丸、赤城艦を守りて列を作った。西京丸は軍艦にあらざるも海軍軍令部長華山中将之に坐乗し、赤城は最小にて奮製なれば戦列を避けて右側に入ったのである。斯て双方の艦隊近づくや、零時四十五分先づ我より発砲し、次で我前鉾隊は敵の右翼を砲撃し、全軍一斉に勇気奮躍、双方の砲撃は時々刻々猛烈を極め、激戦は午後五時まで行はれ、終に敵艦経遠以下四隻を破壊沈没せしめ、定遠、靖遠の二艦また火を発し、敵の艦形は散々に乱れ、黄昏頃西方に向かって逃走したのであった。此の激烈なる戦に於いて赤城艦長坂本八郎太少佐は壮烈なる戦死を遂げ、其他少なからず死傷者を出したのであった。又西京丸には樺山海軍軍令部長が坐乗したるが頗る苦戦に陥った。旗艦松島には司令長官伊東東祐享中将坐乗したるが艦體は敵弾を受けて火を発したので一旦旗艦を橋立に移したのであった。而まも我が艦船とも一隻も破壊沈没したものは無かった。此の海戦に於いて我が海軍戦死者は、将校十、下士卒六十九、負傷は全艦隊を通じて百六十であった。清国側は致遠二百五十、経遠二百七十餘、超勇不詳、定遠の死亡十七、鎭遠の死亡十五、其他諸艦凡そ百、合計八百人は戦死し、負傷は二百五十二であったと云ふ。如何に其の激戦なりしかが窺はれる。

軍艦赤城、西京の奮戦

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