攻城砲

高知県の観光名所

高知県の観光戦争と日本軍艦集>攻城砲

要塞砲と攻城砲とは單に攻守その位置を換へただけであるから、防者に備へがあれば攻者にもまたそれだけの威力が必要である。現在使はれてゐる攻城砲は、小は9センチ位のものから、大は42センチ級のものまであつて、砲種もまた加農もあれば榴弾砲もあり臼砲もある。ただ要塞砲と異なるのは、重量も輕く運搬、分解、組立等が容易にできるやうに工夫されてゐる點である。第五圖を第四圖と對照すれば良く了解されると思ふ。日露戦争當時には攻城砲は大抵人力がまたは輓馬で運搬してゐたので、重量が非常に制限され、従って威力も少く15センチ級の火砲が最大のものであつた。しかるにこれでは旅順における露軍の新式要塞に對しては如何ともすることができなかったので、非常な困難と多くの日数を費して28センチの海岸砲を運搬して据付られたことは承知の事と思ふ。バルチック艦隊は東航して來る、奉天の敵狀は愈急を告げる、頼みに思ふ28センチ榴弾砲はこれから大八車のやうなもので運搬して、コンクリートで砲床を固めてその上に組立てねばならぬので、何時になったら撃てるやらといふのが當時の情況であつたやうである。しかるに現在では自動車のやうな輸送機械が非常に發達すると共に、火砲にも特殊鋼のやうな地金が用ひられたり、新規な製作法が應用されたり、または復坐機の重いスプリングが壓縮空氣で代用される等、色々の改良進歩が行はれて重量が輕減せられると共に骨の組立砲床等もできて、組立てを容易にすることができるやうになつたので、大口徑の巨砲も容易に運搬できるのみならず、少數の人員と僅な日數で射撃を開始することができ得るに至った。日露戦争當時、かやうな進歩した火砲ができてゐたならば、どんなに効果があつたであらうか。

攻城砲

高知県の観光へ戻る  戦争と日本へ戻る 
昭和初期の兵器へ戻る