雪蹊寺:重要文化財
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高知県高知市長浜
彫刻
木造薬師如来及兩脇侍像(三体)
木造十二神將立像(十体)
木造毘沙門天及脇侍立像(三体)
薬師如来像及び脇侍像は共に運慶の作であり、十二神将立像は道雲、海覚の作で、文永の頃寄進したものと言う。又毘沙門天像の左右の柄に、中尊一体並吉祥天女禅膩師童子、以上三尊法印大和尚湛慶□□也とあり、湛慶の真銘のある仏像は本邦に於ても稀有のものとして名高い。何れも傑作揃であって、数に於ても芸術に於ても竹林寺の重要文化財と相拮抗して仏像界の一偉観である。当寺はもと高福寺と称し、中頃慶雲寺と云ったが、永禄の頃長宗我部元親、臨済宗に改め、高福山雪蹊寺とも、又少林山雪蹊寺ともいった。雪蹊は元親の法号である。元親の位牌の文に“羽林次将贈正三位雪蹊恕三大禅定門”とあるよりとったものである。元親天正中浦戸に築城し、その城下たる長浜の大伽藍として上下の帰依極めて深きものがあったが、慶長四年元親死するや、本寺を以て菩提寺とした。
元親は初め彌三郎と称し、後宮内少輔、土佐の太守、従四位下侍従に叙せられた。元親天文八年長岡郡岡豊城に生る。永禄、天正の年間父祖の余烈を継ぎ、まづ土佐を一統し、尋で天正三年阿波に出兵し、九年を経て四国を後略したが、同十三年豊公の南征に遭ひて降伏し土佐一国を賜はつた。翌年西国陣に出兵し、同十八年小田原の役に参加、更に文禄慶長両度の征韓の役にも従軍し、孰れも武勲をあげたが、慶長四年五月十九日伏見の郷に歿した。年六十一。元親生前自ら字して恕三と呼び、等持寺僧策彦雪蹊の法号を授けた。是に於て謚を定めて雪蹊恕三大禅定門という。翌日天龍寺に火化し遺骨を土佐に送り来り天甫寺山に葬った。其の五輪塔台石に左の銘がある。“慶長四天七月八日前羽林土佐太守従四位下行雪蹊恕三大禅定門護持大施主敬白”
寺中に長宗我部信親の墓があり、隣に奏神社があって、元親の木像を安置し、並に其の肖像をも蔵して居る。
所在地 |
高知市長浜 |
管理者 |
雪蹊寺 |
指定年月 |
明治四十四年四月十七日
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