人間魚雷(回天)

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全長:14.75m 重量:8.3t 直径:1.0m

東部に約1.6トンの爆薬を装備し潜水艦に搭載されて敵艦に接近、母艦を離れて体当たりをする有人魚雷

人間魚雷(回天)

回天の創始は、特殊潜航艇とは全く異なっている。この兵器は、戦局の前途が暗澹としていた昭和18年の秋、二人の若人によって創案された。それは黒木博司大尉と仁科少尉である。当時、呉軍港外の大浦崎にあるP基地で特潜の艦長としての修練や研究に専念していた両名は、戦の前途を憂え、必死必殺の兵器を考え出そうと全身全霊を傾倒し、ついに九三式酸素魚雷を全幅活用する人間魚雷を創案した。そして十八年の暮から十九年の正月にかけて幾度となく海軍省に血書嘆願し、また自ら上京直接懇願した。しかし必死を前提とする彼らの考案はなかなか取り上げられなかった。ところがこの間にマーシャル群島の欠絡、日本海軍最大の前進基地トラック島の大空襲が相次ぎ、もはや尋常の手段ではなんともならぬことがはっきりしてきた。こうしてついに十九年二月末、〇六兵器という名で試作されることになった。呉海軍工廠魚雷実験部で設計、試作が夜を日についで強行され、7月、三基の試作兵器が完成した。そして8月1日、海軍大臣が兵器採用を決裁し、その名も黒木大尉の提案通り「回天」と命名された。長さ14.7メートル、直径1メートル、総重量8トンで、上げ下げ可能な1メートルの潜望鏡を備え、潜航、浮上、変針、変速は自在で、また自動的に一定の深度、速力で直針できる。射程は三十ノットで二十四キロ、十二ノットで七十二キロであった。頭部に1.6トンのTNT炸薬をもっている。すなわち、一発でいかなる巨艦も轟沈させうる威力をもった恐るべき兵器である。19年9月はじめ、徳山湾にのぞむ大津島に回天基地が設営され、ただちに訓練がはじめられた。ところが創始者の黒木大尉は第2日目、すなわち9月6日の夕刻、樋口孝大尉との同乗訓練で海底に突入し、無念の殉職を遂げてしまった。彼が回天第一号の艇内で、絶命するまでの約十時間の間に書き残した二千字におよぶ遺書は、国を思う一念に貫かれ、涙なくしては読むことができない。

(昭和日本史抜粋引用)

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