長宗我部期石垣

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高知城

高知城のある大高坂山は、南北朝時代の大高坂松王丸などふるくから軍事拠点として利用されていた。戦国末期、四国の覇者となった長宗我部元親は、岡豊城から、天正16年(1588)大高坂山に移り築城したが、水害などにより城下町形成が十分でなかったこともあり、天正19年(1591)に土佐湾に面した浦戸城に移転したという。この石垣は、三の丸石垣改修工事の事前調査として、平成12年8月から実施した石垣背後の発掘調査により確認された。その盛土から中世の遺物以外のものが出土していないため、長宗我部元親が築城した際に構築されたものと考えられる。また、豊臣家から拝領したものと推測される桐紋瓦も盛土の中から出土している。これは、瓦葺きの建物があったことを示すとともに豊臣家との結びつきを示す資料である。
石垣は、延長約13メートル、高さ2.7メートルあり、現在の三の丸のすぐ下に埋まっていた。使用されている石材は、主にチャートであるが、一部に石灰石や砂岩も使用されている。石の大きさは、山内氏が構築した三の丸石垣の石材と比べると全般的に小ぶりである。長宗我部氏は、浦戸城や中村城でも石垣を築いており、高知城の石垣は、技術的に熟成する過程にあるものと考えられる。慶長6年(1601)に長宗我部氏に代わり、山内一豊が土佐に入国し、時を置かず高知城の築城に取り掛かっている。三の丸は、慶長16年(1611)に完成した。その工事の時に長宗我部時代の建物は壊され、石垣の前面に盛り土がなされ、曲輪が拡張され現在の形となったものと考えられる。
(看板引用)

長宗我部期石垣

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