高松順蔵邸跡

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安田町

高松順蔵 1807〜1876(儒学者、歌人)
文化四年、安田浦の郷士高松益之丞の長男としてうまれました。本名は順蔵で後に小埜と名乗りました。幼い頃から郷士の学者の祖父の高松弥三衛門の指導を受けて学び、わずか8歳で郷士職を継ぎました。後に江戸に出て学問に専念し、経書や歴史の研究、また、長谷川流居合術を修行して奥義を究めました。絵は南画大雅堂の流れを学び、和歌の道にもいそしみ、諸国を巡り、学者や歌人と交わり、その足跡は土佐一国にとどまらず遠く九州にもおよび、その歌作二千余首は歌集「採樵歌」四巻にまとめています。家督を弟勇蔵に譲り、野にあって権威に屈せず自適の生活を送りました。彼の風徳と学問を慕って教えを請う者が多く、その中には中岡慎太郎を始めとする勤王志士が多く存在し、まさに安芸郡勤王の志士の育ての親といえます。妻、千鶴は坂本龍馬の長姉で、龍馬は度々姉夫婦を慕って安田を訪れており、龍馬の思想の形成には順蔵の経国的思想の影響が大きかったといわれています。
明治九年八月に70歳で死去、墓は安田町常行寺

長男 太郎は龍馬の誘いで海援隊に入り、小野淳輔と名乗り、龍馬と行動を共にしていました。龍馬の死後(明治四年)朝廷の命により龍馬の家督を継ぎ坂本直と改名しました。

次男 習吉は十七歳の時、龍馬の兄権平の養子となり坂本南海男と改名、自権運動の指導者として活躍、後に直寛と改名、高知県議会議員も務め、明治三一年北海道に移住し、龍馬が夢見た「蝦夷地開発」とキリスト教布教に生涯を捧げました。

現在の、龍馬の系譜といわれる坂本家の人々は、直寛の子孫です。

(看板引用)

高松順蔵邸跡

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