金剛福寺

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第三章武家美術時代

第二節建築

次に後深草天皇の建長五年三月に慶全阿閣梨が蹉跎岬の金剛副寺に三重塔を建立したが康元元年八月に他の寺殿と共に燒失した、その後同寺は數回建立せしも燒亡したのであつた。南佛上人來つて伽藍を悉く再興し中興開山と仰がれてをる。亨祿年間には京都の御室仁和寺ょり尊海法親王下國ありて住職たりしこともあり戰國武士も敢て狠藉を加ふるものなく寺院安全であつた德川時代に入りては寬文年間山內忠義公の再興にょり樓門、寺塔、金堂其他の堂宇悉く完備してゐた。現今の建物は全部明治年間の再興であるから後章に述べてある。

西養寺

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