竹林寺客殿

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第三章武家美術時代

第二節建築

竹林寺の客殿はもと東照權現のあつた所にたててあつたがたまやょり火を發して全部燒けた、文化 十三年に土佐國主山內豊資公の寄進にて現在の建物を建築したものである、此の建築は建築樣式ょ り云へば室町時代に行はれた書院造の構造を備へてをる、住宅建築の一種である。蓋し我國の住宅 建築は上古は頗る幼稚で違棚も床も疊もないものであつた、藤原時代に至り當時の所謂貴族の住宅 として寢殿造りが出來た、屋根は入母屋造で檜皮葺とし室內の床は板敷で圓座を敷いて座する樣にしてあつた。この時代は日本風の新に工夫された時代で下駄の初りも衣の袖の出來たのも、座はる樣になつたのも、十二單衣の始りも皆この時代である、鎌倉時代に至つて武家が益々勢力を增加して彼等の邸宅は寢殿造では都合が悪いので武家造が行はれた、その造りは矢張寢殿造から出たもので寢殿造と等しく寢殿と呼び寢殿と同じものがあり、對屋もあり之れを渡殿で連絡したが只防備といふ點から周圍に築地を廻らし之に樓門を附けた、樓門は門の上に櫓を乘せたものである、而して禪僧が書見するに室內にては暗いため緣侧の方へ窓の樣なものを拵へて其所にて書見をすることを始めた、之れを書院といつて居るが武人も亦禪學を修める者多く此の書院を自宅に用ひる樣になつた、故に書院といふのは其の始め斯様な實用から設けられたのであるが後には唯單に形式のものとなり室內裝飾となり、後世之を附書院と稱する様になつたのである、又納戶構(帳臺構とも云ふ)と 云ふものの如きも武人として必要上設けられたものであつたが後には追々形代化して單に裝飾とな つたのである。次に書院造の構造を說明すれば寢殿造の如く數多の家を廊下にて連結したのではな く總て大きな一つの建物としその內部の構造は最も主な部屋の床を一段高くし之れを上段の間とし次の間、三の間等が之れに接してゐる、上段の間には床間、違棚を設け右に椽側の方に書院構左に納戶との境に納戶構(帳臺構)を設けてある、寢殿造の廂に當る所を廣掾とし內側とし箕子椽に相當する所は落橡とし一段低く且つ狹き椽となつてゐる、天井は上段の間は格天井で他は猿頰天井又は棹緣天井を用いてある、上段の間、次の問、三の間其他部屋の堺は襖で之れに繪を描く。尤も部屋椽との境には明障子を用ゆる塲合もあつた、又玄關も附けるに到つた、吾々の今日の住宅はこの 書院透りに數奇屋造を折衷したものである、数奇屋造とは桃山時代に茶道の完成と共に發達したも ので有り合せの材料を以て美術的に構成するのが主意で壁の如きも竹の心に土を塗つて作る樣にな つたのである。竹林寺客殿の建築は南面し扮暮、箱棟、入母屋造で東西に長く桁行十間梁間九間餘で頗宏莊な建築で土佐の寺院の客殿として最も巨大な規模のもので木組が非常に大で天井も柱も高い、柱頭には 斗組もない、舟肘木があつて桁を受けてをる、室内の構造は書院造の構造を完全に備へて西北隅に 一段高くして上段の間があつて八疊敷となつてをる、その正面に床がありその右は違ひ棚がある、 正面床の西側は書院構と云ふ木組の細かい障子を入れた床に似た構造を取りつけ、正面の違ひ棚の東側には納戶構と云ふ主人の日常使用の具足や刀劍を置くニ疊敷の室がある、上段の間の天井は格天井で南側は次の間で大廣間となり四十二疊敷であるが之を三つに區劃し襖を入るる樣にしてある納戶構の東隣に奥の間があつて八疊敷で床が附いてゐる、奧の間の束侧にも八疊の間がある、南緣はニ段となつて南外方だけ更に一段低くしてある。室內の裝飾は多くはないがその見るべきものは 欄間であつて葡萄と栗鼠の透彫はニ面であるが頗る雅致に富んだものである、上段の間の背後に極 めて閑雅な茶室がある、名づけて紅梅の間と云ふ、天井などは竹を組み柱や壁其他室全体に數奇を凝して意匠してある。客殿の楝に續けて東側へ稍低い小規模の切妻の屋根を添へ南面せる唐破風の玄關を附けて其の後方に庫裡がある、玄關は枌葺で桁行ニ間奥行一間で鬼板は三柏の紋に若葉の彫刻である、屋根裏は化粧屋根裏で正面に舞へる鳳凰を揭げ虹梁の上の蛙股は若葉蛙股の中に蛙仙人、天井ば板天井、柱頭は三ッ斗で虹梁の木鼻は優秀である。

本堂

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