土佐神社

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第三章武家美術時代

第二節建築

二、神社建築

土佐神社は土佐郡一宮村に鎭座の當國唯一の國弊中社である。南に曠 野を隔て、高知城を遠望し、北に蜒蜿東西に連亘する北山の峯巒を仰ぎ山紫水明にして風光優雅、民家はあれども蓬戶茅屋にして亂柳破蒽の舊隱家多く、四季靜穩にして幽閑靜寂の仙境である。境內は平地な れどもその馬塲は長く老杉鬱蒼として南北に連り境域廣濶にして千古の老杉亭々として蒼天に聳え蒼翠環拱して神德の崇高森嚴なるを示現しその由來の宏遠なるを語るが如くである。 當社の現存せる建築は大正十五年を去る三百五十五年以前の古建築にして內務省特別保護建造物の中にて全日本的に顯著なる特色を有し本殿の向拜の裝飾は結構古奇にして室町時代の粹を盡し拜殿の構造は珍奇にしてそのプランは十字形をなし他に比類なき樣式にして且っ後世當國の神社建築に大なる影響を與へ當國の神社の社殿は何れもこの樣式に從ひ十字形となすに到されば稍詳細に當社にっき記載しゃぅ。而してこの神社の建築を詳細に述ぶるに當りてその祭神の由來其他を略記すると祭神は大和の葛城山に祭祀しありし一言主神と云ひ或は同じく出雲系の神なる大巳貴命の御子なる味鉏高彥根命なりと云ひ或は兩神は異名同神とも謂はれてをる。このー言主神は續日本紀によれば雄略天皇葛城山に御狩し給ひし時に神異を示して獲物を爭ひ天皇の叡慮に觸れ土佐に移さると記してある。然し日本 記、古事記にはかヽる記事なし然れども日本記に依れば天武天皇四年三月に大神より神刀一振を天皇に進め奉ると見へてをるから創建の年代の極めて上代なりしことを知ることが出来る。思ふに土 佐の地は太古は本州と海路にょる交通ありしのみにて最初の開拓者は土佐に近い紀伊よりせる出雲系の神々であつた。それは土佐の神社が是等の神々を祈れるにても知ることが出来る。嘗つて成務 天皇の御代に國造を定め給ひし時に言代主神の裔なる小立足尼を土佐の國造となしたるもこの國に 緣故深かりしに依つたものであらう。 續日本記に依れはこの一言主の神は初めは今の土佐郡鴨田村鴨部にありしを後に現時の一宮衬遷し其後に鴨田村鴨部にありし高賀茂朝臣田守等がその荒魂を奈良朝時代に奏し請ふて大和の葛城郡に勸請し和魂は留りて元の土佐神社にゐませりと云はれてをるが古事記、日本記,續日本記等の記錄ょり考查するに大和にて此の大神を宗祀せし氏族の何時の世にか南海の地に移り、我が土佐國に居を定めしより大神をも遷して齋きしものであらう、この神社は古く延喜の制にては大社に列していたが明治四年に國幣中社に列せられた、神階は貞觀元年には從五位下にて其後屢々昇進があって天慶 三年には海賊の御祈により正一位の極階に進んだ。拜殿幣殿及び本殿の建築は上代の事は明かならざるも中世以後となり嘉曆元年に建築あり、次で天文三年に建築ありしが永祿六年五月本山茂辰岡豊城を襲はんとして火を一宮村に放ちしに餘焰延いてこの社殿に及び攝社末社悉く鳥有に歸せしが元親は己の爲めに四國無比の社殿燒失せしめしを恐懼し之れが再述を企て永祿十年十一月工事に着手し元龜ニ年春竣エした。

當代の特色

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