拜殿

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第三章武家美術時代

第二節建築

二、神社建築

現在の本殿、幣殿、拜殿は明治三十七年九月內務省特別保護建造物である工事は元親父子嚴重に監督し上方ょり大助と呼ぶ大エ並に檜物師を呼下し擔當せしめたが、當時は 未だ鉋の如き道具なくして板面を削るに舞鉞を用ゐた、建築の用材は大部分檜の良材で手法踈大にして雄揮桃山時代以後に我國神社建築に用いられたる八楝造卽ち權現造の濫觴をなしてをる。而し て又七面造りに似た構造でこの建築は俗に入蜻蛉といふ様式になつてゐる。其の故は元親が長濱村の若宮八幡宮を出蜻蛉といふ式にて出陣に象どり此の社は凱旋の歸陣に象どり入蜻蛉の式を用ひた るものである、惟ふに入蜻蛉はその構造が拜殿幣殿の平面圖に於て十字架の頭部の本殿に接近連續せしめたるものにして出蜻蛉はそれと反對に尾に相當する部分を本殿に接近せしめたるものである蜻蛉は昔秋津州の故事あり古言にて勝蟲とも呼び武運の目出度を祝するに相應しき蟲なればかかる經營を變じたるものにしてその様式の奇拔なる宇治の鳳凰堂の外本邦には稀有である。然し宇治の鳳凰堂は樓閣的で技巧を弄した觀があつて雄大の感はないがこの拜殿は戰國時代の武將の磊落豪宕の氣宇が充分に表彰せられ繊細な裝飾が少い、どこまでも雄大森嚴の戚を抱かしめる。それで拜殿の構造を詳説して見ると幣殿と拜殿とは連結して前述の通りその平而圖が東西の屋根と南北の屋根が相交叉し十字形となつてをるがその直角に交つた上方の部分が高屋根となつてをる。此高厘根の部分は瓦楝の柿葺で切妻造となり桁行五間平、梁間三間半で柱は直徑ニ尺ある大圓柱四本ょりなり屋根裏は踈垂木で柱頭は三ッ斗で南側と北側との梁の上に三ッ斗を戴いた大瓶束があって大瓶束の下端には結綿がついてをる、而して大圓柱と大圓柱とを連結した四面の梁の隅にも各々斗組が取付 けてある、そして天井は鏡板張天井で建築用材は巨大で手法は剛健である。 而して拜殿は此の中央の高屋根をその中心として東と西とに翼廓を出してある。その翼廓は各々瓦 棟柿葺の切妻造で各々桁行六間半梁間三間半あって屋根裏は踈垂木の一重で東方と西方に向って七尺七寸毎に直徑一尺一寸ある圓柱を立て東方の翼廓に十一本西方の翼廓に十ー本、東西合計廿ニ本の圓柱を用い東西兩翼廓の南側は床面をー尺低くして南緣を作って圓柱と等距離に七寸角の方柱を 建て大なる舟肘木にて桁を受けてをる。而して方柱と圓柱とは海考虹梁を以て繫いである。圓柱の柱頭にも各々舟肘木がある、この東西翼廊には天井はない。次に高屋根ょり南方へ東西翼廊に對して直角に出してある向拜(拜の出)は切妻造瓦棟、柿葺で桁行五間半奥行七間半あって七尺五寸每に圓 柱を立て東側に七本西侧に七本合計十四本の圓柱を並立せしめその外侧には床面を一段低くして椽を設け圓柱の南北の距離と等しく七寸角の方柱を圓柱と同數に雄ててあるが、この向拜の左右の椽側と内側とは壁や戶や板などにて區劃をなさず向拜の床上を殊更開放せるは戰國時代に大多數の軍 兵が集介して凱旋を神に吿げ祭祀するに便ならしめてこの建築の特色を表はしたものであらぅ。拜 殿の床而を幣殿の床面ょりも低くし更に向拜の床面を一尺低くし更に外方なる左右の椽の床面を低くせるは戰國時代の習惯で階級制度が嚴である爲め武士の資格により階級に從つて下座に着くこととしたものであらぅ。向拜の屋根も切妻造柿葺の瓦棟で楝の正面には大なる菊と雲の模様の瓦で切妻の破風には大なる懸魚があり棟木を受くるに大瓶束があつてその頂上には雲形の肘木を戴き左右 にも雲形の犬なる彫刻が對照的どなつてをる。向拜の正面の虹梁の上には草花の透彫を入れた蛙股 がある。虹梁ど向拜柱との相交はれる內側には獅子の頭に斗を戴いた彫刻をつけてある。向拜の左 右の柱の柱頭には大なる舟肘木があつて梁を受けてゐて前後に連續せしむるには各々七本の圓柱の柱頭より約ニ尺床面よりも約ニ尺の所に各々貫を通して構造を丈夫にしてある。この向拜の部分にも天井はない。屋根裏はー重で繁垂木となつてをる。

當代の特色

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