朝倉神社
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第三章武家美術時代
第二節建築
二、神社建築
土佐に於ける縣社の中にてその傑出せる點に於て國幣中社土佐神社に次ぎ莊麗無比古建築美術の粹を盡せる朝倉神社は朝倉兵營の西北ニ町餘の赤鬼山の南麓に在つて南に數百餘年を經過したる老杉が梢を閉せる並木の馬塲が數町續いて後方は鬱蒼たる深林の境域が廣くして十七町步に跨つて神靈の神々しさを增してゐる。祭神は天津羽羽神、天豐財重日足姬天皇である。當社は昔より齊明天皇御幸の朝倉の宮なりとの說ありて王代ー覽や本朝歷代編年錄等諸書にもこの事が記してある。これ
は日本紀に國名を記せずして只漠然と朝倉の宮に遷御すとの文ありしより誤となりしもので天皇御幸の朝倉宮は筑前で土佐ではない、然し古來この宮は朝倉莊の總鎭守、國內の靳願所である。又勅願所で勅使、上使が屢々參向した、國中の年中總祈願の如きは土佐神社と更代に祈白せし所にして往昔より神領や社人給が數町步あつたことが天正地檢帳に見えてをる。山內ー豐入國後は社領、給田を收め更に社領若干反步を寄附し神官、別當には給領を贈りその營繕祭費の如きは藩より辨じた。
元は祭神は天津羽羽神一神であつたが齊明天皇の朝倉村木の丸殿に崩御ありしと誤り傳へありてよ り維新後特に天皇を當社の祭神に合祀するに至つた、故に俗に木の丸大明神といふ。歴代藩主の崇敬淺からざりしが特に山內忠義公は本殿、幣殿及び拜殿を改築し、輸奐の美を盡した。
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