神谷村天岩門別安國玉主天神社

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第三章武家美術時代

第二節建築

二、神社建築

天岩門別安國玉主天神社は神谷村杉のはなに鎭座し式社にて鄕社である。同じく仁淀川に沿ひ川上の明治村の天岩門別安國玉主天神社と距離も近く僅に二里を隔てたる上に祭神も同一であるから何れが本來の式社なるや疑問である。抑もこの社殿を式社と山内氏が定むるに至りしは同地波川の神主なる高鴨壹岐なるもの元祿五壬甲年霜月に神人三人共に靈夢を感じ翌朝起き出で神谷村坤隅山上杉のはなと呼ぶ所のー尺五寸四面の無名の小社の背後の巖壁に梯をかけ葛、つた等の發生せる間より左記の銘ある楝札を得た。天野岩戶分安國玉主天神社、天文九年庚子霜月八日、勝賀瀬越後造立之祭日九月十八日下分勝賀瀨門太夫云々ここに於て壹岐は驚喜して藩に届出た、それより元の小祠の稍前方に三尺四面の宮社を建て、國主より水田若干の寄附があつて祭典の厚きを加へた、谷重遠著の土佐國式社考にも同様のことを記してある。然してその天文九年の楝札の出所につきては神谷村の當社の神社記には川上より流れ來りしものにあらずして當地の舊領主勝賀瀨氏が城中に置きありたるを長曾我部元親に攻められて逃亡の際に杉のはなの舊祠の背後の巖穴に隱して置きたる ものであるとし、長曾我部元親の手記に神谷天神云々の記事が卽ち當社なりと稱し尙三代實錄に載せられたる貞觀十二年三月五日丁已詔授土佐國大谷神社從五位下とは當社である、神谷は往古は大谷と呼びたりと稱してゐるが然し三代實祿にある大谷神は香美郡にあるから當社とするは率强附會であると思ふ。德川時代は當社は總て藩營であつた爲め祭典は莊嚴なりしも下民の參詣なかりし故淋しかつたが明治村なる同社は地方民の參詣にて雑沓し盛觀を極めた、明治維新となり縣にては氏子を分つに當り當村のものを當社の氏子とし他村のものを明治村の天岩門別安國玉主天神社の氏 子とした。楝札には天文九年のもの以外には元祿六年癸酉十二月五日甲戊再造云々のもの、元祿十五年壬午九月神吉日のもの、寶永四年丁亥年七月十七日云々のものなどがある。

須崎町八幡宮

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