窪川町高岡神社

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第三章武家美術時代

第二節建築

二、神社建築

高岡神社は窪川町の西北約十餘町の宮內なる仕出原の山に鎭座せる縣社である。東第一の大宮より西第五の森の宮まで五社相並んで造營せられてゐる、東第一の大宮の祭神は大日本根子彥大邇尊にて次の第二の宮は今大神宮と云ひ磯城細姬命を祭り中三の宮は中の宮と云ひ、大山祗尊吉備津彦狭島の命次第四の宮は今宮と云ひ、伊豫ニ名洲小千命、西第五の宮は森の宮とも云 ひ伊豫島天狭貫命を祭つてある。この神社は往古は仁井田大明神と稱し一社なりしと云ふ社傳に曰く天長三年僧空海四國靈場を創めし時第卅七番に加入し勅許を得五社に分祀し五社大明神と改稱し朝廷の直轄の作事なりしと、その後金剛福寺尊海法親王の直支配にて社領地五百石を以て社費に充て長宗我部元親の楝札にも社領地 五百石の明文があつた、慶長年間國老林氏が窪川を領するや五百石を沒收し社格を改易し慶安五年藩主山內忠義公再興の際宮內村に於て社領五反の寄附があつた、俗に曰ふ仁井田鄕五社と稱し古來より仁井田七鄕六十八村の總鎭守として威徳最も顯著で各神は六座なるも社殿は五宇に分れてゐる明治元年高岡神社と改稱し五年縣社に列した、傅へ云ふ太古四國の名未だ分れず、伊豫のニ名洲と總稱せられし時孝靈天皇の皇子彥狭島命ここに封ぜられ給ひ數多の眷族從臣を召連れ來りしを齋き祀れりと、即ち五社中の三の宮は實に彥狭島命にして其の脇宮の祭神も自ら伊豫に關係ある事は神 名を見ても直に知ることが出來る。彼の名族なる越知氏も實に此の彥狹島命の裔であると傅へらるる、當社は式外と雖も古き緣起ある神社にして其の祭儀、神幸等に於ては古風の事多く社寶も多い花島踊は昔より有名である、古き棟札の寫しもある、其の銘は上楝新造營仁井田五社之中宮本地彌陀如來御齊殿一宇長宗我部秦氏元親同信親天正十癸未三月廿一日東藤原宗隆西原藤旅貞淸窪川藤原宣秋志和藤原宗茂西藤原宗勝金剛福寺院主權大僧都榮印大工喜多田井右衛門藤原云々と。

須崎町八幡宮

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