平田村高知座神社

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第三章武家美術時代

第二節建築

二、神社建築

高知座神社は幡多郡平田衬の戶内なる高知山に鎭座せる鄕社である、その位置は仝村の淼と呼ぶ所を西に通ずる宿毛街道より南へ七八町行けば高知山の山麓に西面して社殿がたてられてある、東方背面は山を負ひ老松鬱蒼として茂れる松林に連り西方は田園遠く開けて四万渡川の支流を隔てて淸水、北川の丘陵に連つてゐる。附近には人家稀れにして靜寂幽邃の靈地であつて石壇を上ること半町にして拜殿に達する。祭神は都味齒八重事代主神にて相殿右に大國主尊、左に素盏鳴尊を祭つてある。當社の由緒は頗る古く延喜式廿ー社の內の一社にて、天正の地檢帳に依れば本殿の桁行ニ間ニ尺梁間ニ間の扮葺にて舞殿は八尺四面の扮葺、拜殿は桁行五間半梁行ニ間半の茅葺と記錄せられ現存の建物に劣らぬ立派なものであつた、往時は長福寺が別當寺であつたのでその呵彌陀堂が境內に殘つてゐた時代があつた。德川時代となり伊賀家の尊崇頗る厚く社殿はその造營によつてゐる神体は靑黑の玉石にて圓筥內に盛り更に方箱に納め攝社の神体は靑石にして杉箱に盛り共にニ座である。現存の楝札の古きものは高持者大明神大檀那房某御運長久御萬千代丸御壽命長遠天文十三年甲辰卯月十二日福井右京亮惟宗忠能布藤原三郎實崎作州猪野野又三郎若藤右近將監津野太郎左衛門昌景芝岡宮本實次岡野筑後岡脇宗次松崎丹波四郞賀宇康豊ご銘あるものがある、鰐ロもあつた、その銘は應永六年七月「願主立石性永」としてあつた、神体は石にて相殿の大國も石、外に惠比壽を祭りその神体は木像である。現存せる本殿の建物はその棟札によると領主橘氏篤が幼時屢々病あり父氏興が之を神に祀りてその加護により長ずるを得たので明和五戍子年冬十一月吉日に社殿を重修したもので嫡男橘氏益、大エ頭は中山喜平次行重、楝梁大工は北岡芳年具應等にてその姓名が多数錄されてある。

須崎町八幡宮

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