藤波神社

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第三章武家美術時代

第二節建築

二、神社建築

藤並神社は高知公園の東側にあつて高坂城に續く老杉古樹梢を交へ欝蒼たる密林に閉されてをる。東、南、北の三面は昔の城の內堀に圍まれて蓮花が開き咲れ緋鯉が池水にをどつて神域を幽速にしてゐる。境內に藤並神社の外に春日神社がある、藤並神社の祭神は山內ー豊公及同夫人若宮氏ニ代忠義公の三柱を合祀し文化ニ年五月京都吉田家に請ふて勸請し神祗道管長上下部朝臣の神宣狀を以て藤波神社と稱し始めて神祭を行ひ同年八月五日高知に歸座し文化三年藩主豊策公社殿を此の地に建立した、天保六年八月五日卜部家の神宣狀を以て藤並大明神と稱す、明治元年藤並神社と改稱し た。その次第は合祀せる春日神社の祭神の一なる天兒屋根命は藤原家の氏神にて其の神社を潮江村の宇津野山なる藤並の森に齋き祭りし緣故により其の神裔の神なればとて改めた、そして明治八年縣社に列して今日に到つた。この建物の大工頭は北村才五郎益穗である、此の神社の境域は寬文の昔野中兼山の官宅地で其の執政廿餘年間土佐國の經營は此所に於てした、今尙社內に巨石を以て半覆ひにした兼山の古井があり、西北の林の中には兼山の賞玩したと傳へらるる山茶花が咲く、由緖 の深き所である。追手門外に聳ゆる藤並神社の鳥居は當國第一の大烏居で高さ三丈四尺笠木の長さ四丈餘、用材は高知城の杉段の杉を伐りて用ゐたもので圓柱の周圍は八尺ある、扁額はニ品能久親王の筆である、それを潜つて神橋を北へと渡ると正面に本山白雲作の山內ー豊公の武装して名馬に跨り長鎗を持つて肅々と進み行く英姿颯爽たる銅像がある、それを眺めつ、右手より北へ行くと砂礫を播いた道の兩側には國內の家老や重臣なる深尾繁寬、五藤正順、桐間芳草等の献納した文化四年の文字を刻せし燈籠が相並んで立てられてゐる。

須崎町八幡宮

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