久禮町八幡宮

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第三章武家美術時代

第二節建築

二、神社建築

久禮町の八幡宮は同町の字松原に鎭座せる鄕社である。士佐の東西各郡に散在せる數多の神社佛閣中にて東郡の安田なる神峯神社と西郡の久禮なる當社とは古來ー般の尊信最も厚くその祭典日には國內各所より參詣者群集して來り混閙雜踏名狀すべからざるの盛觀を呈する。社殿は久禮町の店舗櫛比せる巷を離る、南方數町の地にありて民家はあれども蜒莊蟹戸の舊隱家に過ぎずして車馬道を 絕ちて紅麈及ばず神靈鎭座の靈地として天然の地勢備はれる所にある。境內は東南に渺莎際涯なき大洋を望み双名島の絕勝を眺め怒濤澎湃として亂礁奇巖を打ち濤聲轟々として遠雷の如く神苑には千古斧鉞を入れざるの神林蟠蜿として綠深く色濃かに樹梢神靈の聲ありて神德の崇高森嚴の氣が充滿してゐる。 祭神は應神天皇、神功皇后、田心姬神、湍律姬神、市杵姬神、比賣大神であつて當社は寛永四丁亥年大地震あり暴潮の爲め宮殿破壤し楝札其他神社記等は流失せし爲め往古のこと詳かならざれども當社はいつの頃よりか田心姬神、湍津姬神、市杵島姬神を祭れる宇佐八幡宮の古社を久しく祭り來 れるに當地舊領主佐竹氏が永正大永の頃東國常陸より應神天皇を主神とする正八幡宮を勸請し合祭したものである。佐竹氏は世々常陸國にありて佐竹繁末に至り永正十七年に鄕國を出で諸方に流浪して後に土佐に來り久禮を領有した、子玄蕃職義辰も久禮を領しニ代兵部少輔義久、三代天正年間に信濃守義直四代兵衛少輔親辰共に同地にて厳然たる一大名となり一條氏の勃興に當つては其の譜代の隨一となり長曾我部氏の起るに及びては之に與し後に婚を通じ信濃の守義直の時代は其の全盛時代であつた而して古考の說に依れば當社は往古上の加江村にありて產土神なりしが何の時代にか久禮村に移りて同村字川崎に鎭座し更に神籤によりて現今の境內に遷宮せりとのことである。當社の舊き神社記にて古老の口碑に基き正德ニ辰年八幡宮由來書なるものあり、それによると當社は嘉吉の頃建立すとあれどもそれは再興の意昧である、又永正年中再興文祿の頃佐竹竹壽丸、本願中城平次兵衛とせし記錄がある。往古の社殿はニ間と三間の板葺にて廊下一間に九尺の板葺にて舞殿は四間四面の板葺、拜殿は五間にニ間の板葺であつた、そして久禮、上の加江、安和の氏神にて宮林は東西五十間南北百五十間地面ニ町五反餘御山方の支配に屬し古來神殿寶物が多かつた、楝札は古來のものは流失し寶永六已丑年九月氏子中とせるものと正德元辛卯年八月十五日御輿惣氏子中助成奉莊嚴と銘せしものがある。鍔ロの銘の寫しには敬白御寶前土佐州口口庄內明德三年壬申三月六日願主內藏助云々とあり內藏助は當時上の加江領主平田兵庫頭兼親の家臣であつたので當社か上の加江にありし時の寄進である。社殿は東南に面し直會廒を除き本殿、舞殿、拜殿全部何れも用林は檜の節なしの良材を用い手法精巧にして意匠を凝し規模宏莊にして、結構善美を竭し當國の鄕社にて當社の右に出づるものは少ない。

須崎町八幡宮

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