香美郡山田町八王子宮

トップページ高知県の観光高知県の美術第三章武家美術時代>香美郡山田町八王子宮

第三章武家美術時代

第二節建築

二、神社建築

凡そ社寺の崇高森嚴の感を啓示する所以は一には其の社殿の規模の宏莊なると共にニには千古斧鉞を入れざる老樹鬱蒼として之れを圍繞することに依りて成立つ、若しこの兩者の一を缺がんか。その神靈の森嚴祟高の感を半減する。山田町の八王子宮は其の適例として該當せるものである。同社は宏莊、偉麗にして柱楹彫鏤、輪奐の美を盡し、楣間の神仙精巧を極め當國無比の美術的古建物であるが只慽むらくば神境に古樹深林の少ないことである。同社の境內は山田町の東北約五町餘の長谷川丸なる丘陵にあるので四季の跳望頗る絕隹であるが樹木少き爲め神靈の鎭座せる靈地としての外觀を有せず寧ろ公園的氣分がただよふてをる。然し目下植附けてある樹木が生長し蓊蒼として蔭翳、晝尙ほ暗きに到らば幽玄森嚴にして神骨懼然たる感が沸くに到るであろう。 此の神社の由緒は明確に斷言し難きも神社の傳へによれば往古楠目城主山田氏に仕へたる野ロ總左衛門、藤原寄長が主命依り江州東坂本村より勸請し來りたるものにして眞僞は別とし土御門上皇潜幸の節御宸筆の額と八花鏡を奉納せられたる事ありとの說あり、現在の本殿は文明元年五月ニ十三日の建築物にて初めは山田の八王寺にありしが寬永十七年九月十七日山田の中井溝を堀れる節に宮床が井筋に障りしを以て野地の字長谷川丸なる現在の處に移したものである、但しこの説には異說ありて元は山田の內鍋山にありしとも傳へられてゐる。楝札には寶永十七年十ー月のものと、元祿ニ已九月以後のものがある。慶長年間山內ー豐以下代々國主の尊敬深く祭日には國主代理の參拜があつた、社殿は全部南面しその樣式は大川上美良布神社に類似してゐる。

池川町河島山神社拝殿

トップページへ戻る  高知県の観光へ戻る 
高知県の美術へ戻る