伊尾木村八幡宮

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第三章武家美術時代

第二節建築

二、神社建築

伊尾木村の八幡宮はその町の北方ニ町餘の岡に南面して字內原に鎭痤せる鄕社である。南方脚下は怒濤澎湃として亂礁奇巖を打つ九十九洋にして一帶の靑松白砂百里の灣。高岡幡多の翠鬟模糊として水天髡髴の方に望む當國に稀れなる勝地である。祭神は應神天皇であるが神社牒に依ると內原六社八幡宮藏王權現と古來稱し來つてゐて棟札の如きも明治以前のものには全部六社八幡宮としてある。勸請の年月は不詳であるが天正年間の舊き楝札があり天正の地檢帖に社領一町四反と見へてゐる、往時は寶物として神鏡ニ面同柄鏡一面鎧通吉久作と刀吉行作があつて御神体は六社八幡宮も藏玉權現も共に大刀であつて寬政ニ戊年九月ニ日に兩社が古來枌葺なりし處水子等が申合せて此度瓦葺致度き段伊尾木鄕の庄屋より屈出でた云々の記録もある。棟札の最古のものは天正三乙亥年十 二月廿八日大願主源臣親泰同親氏久吉と銘あるものにて次は慶長十年巳乙月迫十五日、元和六年庚八月鬼宿日、寬永十七庚辰年十ニ月吉日寬文五乙已年極月三日、等十餘枚ある、當社は山內家の崇敬深く參勤交代往來の節は必ず當社に自拜した、現存せる本殿は嘉永五壬子歲十一月十五日の改築によつたものにて大エは長野源內正信が下の田村の苅谷春睦等と共に建立せしものである。

池川町河島山神社拝殿

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