潮江天満宮

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第三章武家美術時代

第二節建築

二、神社建築

潮江天神橋の南詰に蓊蔚空を閉す楠の老樹は旣にその神域の凡ならざるこるを顯示する、それより西方へ梅と櫻との並木を潜つて四町ばかり進むと南折して當國無二の美術的建築なる樓門に達するその境內は南方に山內家歷代の廟所ある筆山の鬱然晝尙暗き淼林を控へ北方に鏡川の淸流があるので莊嚴の氣人に迫り神威の神々しさを感ぜしめる。祭神は中央菅公左高親朝臣右北御方でその由來は延喜元年菅公筑紫に贬謫せらるるや嫡子高視亦之に連座して土佐權守となり任地に謂せらるる延 喜三年三月菅公薨去後に遺臣松本春彥菅公の衣劍並遺愛の觀音佛を携へて高視を尋ねて土佐に下る高視乃ち其の遺物を崇めて靈璽として始めてこの地に祭る。然して延喜六年に至り高視歿するや同座として鎭祭するに到つたが衣劍及觀音佛は後世他に轉じてない。社殿は往時は現在の處より一町東にあらしを慶長六年山內氏入國後に現今の塲所に遷し寬永以來藩の直轄であつた、が明治六年三月縣社になつた、本社はかくの如く歴世崇敬至つて深かりしを以て造營も中々嚴かにして中世以來楝札も多いがそれ等のものを擧げて見ると、永正七年十ニ月に國賴助高が再興し、天文十九年三月には片山兵衛尉が再興し、永祿十ー年十月にも同人が再興し、天正十八年三月には森千松丸ー族が再興し、慶長十一年九月には當所代官福岡道勝が再興し、寬永九年八月には山內忠義公と奉行安田 方成が造營し、寬文九年三月には山內忠豊公と奉行孕石賴母が造營し、元祿ニ年には山内豊昌公と奉行山內信利が造營し延享三年八月には山內豊敷公と作事後久万半五郞が再興した、現在の社殿は東面してゐて嘉永六癸丑年の再興で樓門は明治三十五年舊建築物を修理取立て再興したものである 嘉永六年改築の樓門は第三十ー圖の如く現今の社殿の東方にて拜殿の正面に入ロを東面にして東西に通する樣に建てられてゐたもので莊麗無比であつたが卅ニ年の暴風の為め現在の如く位置を北向に變じて暴風の禍を避ける様に舊塲所の東北の位置に建てた。そして其の建築樣式も太さも元の如くし暴風に對し建物保護上左右大臣像の背面に心護柱を立てて建築を丈夫にした。建物の太さも樣式も舊のものを取立て修繕して元建築と同様にしたが大工頭梁は九反田の岩村助太郞にて各匠島村其他の作なる神仙鳥獸の彫刻は一部分破損せるを森田台五郎が改修して元の如く取附けてある然し此の建築は社殿全体の美的權衡から忌憚なく評せば樓門の巨大なるに比し拜殿本殿があまりに隘小なるに鴦かされる。

池川町河島山神社拝殿

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