神峯神社

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第三章武家美術時代

第二節建築

二、神社建築

神峰神社の社殿は峰巒巍峨の天嶮を背後に負ひ輪奐宏莊、規模偉麗を盡したることに於て藝郡中に 冠絕す、境域は安田町唐の濱の街道より北方の山上へ約ー里餘の擄屋が森にある廿餘町は坂路緩な れども中腹の十三町は極めて,難路である。境内は千古の神林蓊鬱として茂り莊嚴の氣山谷に充つ祭神は大山祗命で天照大神、春日大神八幡神を合祀してある。昔は神佛雨部にて神峰寺と稱した、平城天皇大同年中空海草創の靈地にて往時は現今、の處よりも尙廿五町許の山奥にあつたので現に其礎石を存してをる、應仁の亂の少し前までは確かに兩部であつた、元和年中野火の爲めに炎上し舊記寶物等悉く燃失した、.その後神峰寺は廃せられ觀音堂のみ存し四國二十四番の札所であつた、明治維新後に合祀せし觀世像は金剛頂寺に移し明治五年縣社となつた。この社殿も甲浦に行く街道の北方に あるので藩主山內公の江戶へ參勤に上る途上より代參を特派した、即ち元祿十五年には豊房公江戶へ上る途にて御代參を派して金子二百疋を奉納したとの古記がある尙又神社の舊記には次の如きことが記錄せられてをる.、この社殿は清和天皇の頃には現今の所よりも五里奥なる十鐘山にあり、第二回目に遷して廿五町奥に移轉建築し第三回目に現今の塲所へ再建したりと、而して十鐘山に關する歌なりとて西行法師の讀める、『夜をこめて立越し見れば十鐘山、昔の神も朝やきぬらん。更に後醍醐天皇の皇子道覺親王の御歌なりとて『跡垂れて天照る宮の十鐘山神留まるを拜む峰かな』などを記錄してある。然し予は後醍醐天皇の皇子に道覚親王あるを詳にしない。 然して慶應年間までは本殿は大師堂と相幷びて今の社の下段にありたるを慶應四年に野火の爲燒失したるを以て上段の林の部分を開鑿し土臺に大石を築きて境域を廣め再築したもので巨石の長さ一 丈一尺高さ四尺のもの多數ある、石段の下に淸泉があつて淸冽にして盛夏も尙万斛の凉味を覺ゅ。

潮江天満宮楼門

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