吾川郡天岩門別安國玉主天神社

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第三章武家美術時代

第二節建築

二、神社建築

天岩門別安國玉主天神社は吾川郡明治村の黒瀬字宮ヶ奈路に鎭座せる式社で又鄕社である。伊野町より仁淀川に沿ひて溯ること約三里餘の處にあり群山四方を繞れども山低くして河流緩に幽邃静寂の山 村にある、境內には椋の老樹五六株あり其大なるもの周圍約卅尺蓊鬱として繁茂し神威の 祟高森嚴なることを啓示してゐる。古來當社は夏祭が盛大に行はれその盛況高知市潮江なる天滿宮の夏祭に匹敵す、この社は元式社なること明かならざりしが古老の說に依れば往時洪水にて社地社殿共に流失しその棟札が河流に沿へる神谷村に漂着せしを元祿五壬甲年波川の神主高鴨壹岐と云ふもの神の谷の杉のはなと云ふ處の岩壁にて天野岩戸分安國玉主天神社天文九年云々の棟札を發見してよりその神母林と云ふ林中の小祠をとらへて押して天岩門別安國玉主天神社とした。然して武藤致和父子の著なる南路志にても次の如く書いてある。神谷の杉のはなと云ふ所に神母林と云ふ林の內の岩壁の下に一尺五寸四方の小祠あり元祿五年霜月に波川の神職壹岐といふもの右の小祠の脇岩の間より天文九年の楝札を發見し藩へ屆出で三尺四面の社を建てたり、然れどもそれは川上より流れ來れるものにして神の谷の社は神母林にありしを以て神母大明神など云ふ神號ならん云々と記してある。即ち南路志にては神谷村の社は本來の式社にあらざる旨を記してある、明治村の社は往古は三尺四面の板葺の小祠にして楝札文には享保十九申寅年九月廿三日造立天岩戶大明神としてあるものの外明和元申九月廿三日以後のものが多くある、神体は木像にて明治四年辛未二月當社を式社と定めた。祭神は天手力男命にて現存せる本殿は安政ニ年十一月廿二日の改築によつたものである。

潮江天満宮楼門

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