城の起源

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第三章武家美術時代

第二節建築

二、城郭建築

城廓建築も當代に於ける主要なる美術の一部をなせるものにて美術史上看過すべからざるもの である。抑も日本に於ける城廓の起源は頗る舊くして城の字は日本書記に神武天皇八十鳥師を征し給ふ時に作レ城處、號日ニ城田一」と記しある。然れども上古の城は敵を妨げんが爲めに築きたる石壘城柵の簡易なるものを云ひしに過ぎずして稻を積み置きし處を稻城ど云ひ、水を貯へ置きし處を水城と云ひし如きその內容の程が窺はれ桓武天皇延曆十三年の詔に此國山河襟帶自然作レ城、可レ制ー 新號へ宣下改ニ山背一爲中山城國上とあるのによつても城の意味が明かである、然るに源平の亂起るに及び諸國に城廓を設くること、漸く多く山嶮に施すに人工を以てし壘濠、墻棚を廻らして敵に備へ た鎌倉時代となりては邸宅に壘濠を廻らし築地を設け櫓を建て、後世の屋敷城に比すべきものが出 來た、戰國時代を經て織豐時代となり城廓建築は急に進步し山嶮を利用する山城を避け平時の便を計り河川を利用し江灣を控ゆる平夷の地に築くの傾向を生じ天主閣の築造も始まりて城廓建築は完成の域に到達した、天主閣の始めは永正年間に於ける攝津の伊丹城で其後安土城、姬路城、等にこれが建築せられ安土城は最も完備したものであつた。天主閣は佛典より出で須彌山に象る、天主は帝釋である、須彌三十三天の主宰にして上層に位し其下に四天王ありて多聞天はその一である故に天主閣の下に多聞櫓があるとの說がある。又閣上に天主敎の天主を祭り始めしより名づけられたとの說もあり更に天主は殿主にて主君の居所より轉じたものとの說もある、要するに城主の司令塔となり展望臺として發達し漸次莊麗の外觀を備ふるに到れるもので織田信長の安土城の如きは天守を以 て宴遊の室に用ゆる計劃にて內部に狩野永德をして繪書を書かしめ粉飾を施して莊麗の美觀を呈せしめたが德川時代となり天守は唯金銀、財寶乃至武器の倉庫として用いられ、最下に穴藏を設け米掳の類を貯へてあつて最上層は展望の爲め何物もをかず開放式であつて、我國古來多數の城廓中にて美術的建築として著名なるものも多いが就中安土城、桃山城、大坂城は最も規模宏莊にして善美を靖盡せるものであつて更に現存のものにては姬路城が有名である。

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