土佐の城郭建築起源

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第三章武家美術時代

第二節建築

二、城郭建築

土佐の城廓建築は何の時代より始まりしか予は王朝時代に於て城ありしを知らず、淸和天皇貞觀八年九月紀夏井が弟豊域の應天門を燒きし罪に連座して土佐に流され香美郡佐古衬にあり龜山と呼ぶ小高き岡の上に住せしも龜山は城趾にあらずして邸趾に過ぎない。又醍醐天皇延喜十三年津野經高土佐に流されしも城を築きて武威を輝かせしは後世子孫の時代のことに屬す、更に醍醐天皇延長八年正月紀貫之土佐の國司となり國府にありしもその遺跡城廓たりし趾を存せず、只朱雀天皇天慶三年十二月伊豫椽たりし藤原純取反して土佐に入り幡多郡を侵掠し宿毛松尾山に一時城を有したるが如き説がある。されどもその城は木棚を廻らし石壘を擁せるに過ぎなかつたことであらう。

城の起源

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