源平時代の土佐の古城夜須城

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第三章武家美術時代

第二節建築

二、城郭建築

土佐史上に於て城の名稱出づるに至りしは、源平時代以後のことである、治承年間に夜須の莊に夜須七郞行家と云ふものありて夜須城を築いてゐた、吾妻鏡によれば源賴朝が兵を擧ぐるや平氏はその家人蓮池家綱、平田俊遠等をして長岡郡介良の莊の配所にゐたる賴朝の弟希義を討たしめた、その時希義は夜須行家と約あり介良の莊を出で、行家の居城夜須莊に向はんとしたが家綱、俊遠等年越山(坂折山)に追到して希義を殺した、行家は希義の急を聞き直に一族を率ひて之を應援せんとして居城を出で物部川の東なる野々宮に至り希義の討たれしを聞き空しく還つたとある、行家の古城の趾は現存し夜須の町の東北八町餘の地にあつて小高い山を利用せしものにて東西八間南北十八 間餘の牙城の跡あり古井戸の跡も殘つてゐる。

城の起源

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