安楽寺城

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第三章武家美術時代

第二節建築

二、城郭建築

六月十三日武家方は總攻擊に着手し向城を安樂寺現今 の桝形邊に築き城兵に備へた、大高坂城主大高坂松王九は大高坂鄕の總領にして誠忠無二の士であつた、二十六日自ら大兵に將とし出でて安樂寺城を,襲ひ小野彥衛門、クルミノ五郎兵衛、堅田經貞等と劇戰し武家方を惱し經貞を傷けた、七月七日に到り松王丸再び出でて安樂城を攻め西大手に戰 ひしも利あらずして退いた、十二日武家勢大高坂城門を襲ふ八月十日守護代河間光網、近藤知國大 高坂松王丸並遠江戶等安樂寺城を攻め互に殺塲あり宮方遂に克たす、武家方亦大高坂城の急に拔き難きを知り軍略を變じ一時その鋒を轉するに至つた、延元三年八月南朝の諸皇子伊勢大湊を出船し遠江灘に於て難風に遭ひて四散しそのー行中に在せし花園宮土佐に漂着したまひ新田綿打入道、金澤左近將監等これに從ひ奉つた、花園宮は後醍醐天皇第七皇子であつた、然るに武家方の細川定禪 は大高坂城を攻めんとし延元四年十一月二十四日堅田又三郞に命じ津野、三宮、佐竹の諸族と共に兵を出さしめた、而して其の後準備おさおさ怠りなく十ニ月三日定禪等は大高坂城總攻撃を開始し西大手の矢倉に向ひ連日奮闘し二十八日西木戸口より攻め入り、佐伯經貞敵矢に傷いた、翌興國元年正月廿四日宮方の新田綿打入道、金澤左近將監、土佐權守、近藤四郞左衛門尉、和倉孫四郞、有 井又三郞、河間左衛門ニ郞、佐河四郞佐衛門入道、度賀野又太郞入道等花園宮を奉じて潮江山に陣し兵數千を以て大高坂城を救援せんとし激戰數次、翌廿五日に及び互に殺傷多かりしが宮方遂に利あらず近藤四郞左衛門、若黨淺野孫九郎等堅田經貞の爲めに捕へられた、此の戰に城将大高坂松王丸は西木戶に戰死し城遂に陷つた、花園宮は西國に落延び給ひしと云ふも史に徵すべきものがないその後松王丸の所領大高坂鄕は細川定禪が堅田國貞に功を賞して與へ翌ニ年十一月廿九日足利尊氏が安藝郡最御岬寺にこの地の地頭職以下を寄進した。その佐伯文書によると當時香美郡香宗鄕に須留田城があり、香美郡深淵に深淵城があつたこの城は宮方のものが守りたるものにて佐伯經貞が先 陣して城廓を燒き拂ふてゐる、更に同郡に岩村城があつたがこれも燒き拂はれてゐる。

城の起源

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