中村城由緒

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第三章武家美術時代

第二節建築

二、城郭建築

中村城は應仁文明年間攝籙名閥家たる一條敎房その子房家と共に京都の兵亂を避けて土佐に來るに及び長宗我部文兼以下の六族相議し房家を奉じて主となし居城を幡多郡中村に定め共に之を輔けたので一條房家中村城を造營しその市街を經營しその規模を京師に擬し邸第居城の莊麗を極めたのに 始まつてゐる房家より房冬、戾基、兼定を經て內政に到る五世百餘年間土佐の國司とならたるより國人はその居城を中村御所といつた。その外廓の町の東方後川上流を鴨川と稱し、後川北方の山し派を東山と呼び町の東北東山々上には京の比叙山に擬して石美寺を造營し後川の左右の村落を京の左京右京に擬し左岡右山と稱し愛宕山、祗園社、鞍馬御前社などの地を定め五條天神の名を今の天神橋通りにつけ町南不破村に八幡宮を祭り町の中央に京師の御所に擬したる邸第を設けて中村御所を造營し現今の京町又一條町に當る處を京の所謂朱雀大路に當る樣にした。

城の起源

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