岡豊城由緒

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第三章武家美術時代

第二節建築

二、城郭建築

岡豊城は泰氏歷代の居城であつた、秦始皇帝の裔なる秦の川勝の末棄二十五世の孫能俊信濃より移り長岡郡宗我部三千貫を領し岡豐に城を築いてゐた、永正の頃兼序岡豐城に據り威名日に隆となりたるが永正六年に到り本山、山田、吉良、大平等の諸將相謀りて不時に兼序を攻む、兼序奮戰せしも衆寡敵せす遂に自刃した。その終りに臨み近臣近藤某をして嫡畀千雄九を抹けて幡多に逃れ國司一條氏に賴らしめた。千雄九幼にして英氣あり常に父の饗を復せんと欲す永正十三年一條房家本山以下の諸將と和せしめ再び岡豐城に歸らしむ舊臣來り勢力又振ふ千雄九元服して信濃守國親と稱し 家門の衰頹を挽回せんとし山田氏の虛に乘じて之れを減し介良下田十市の諸城を席捲し本山氏の長濱城を拔き對戰中永祿三年六月十五日病歿した、子元親その後をつぎ英邁にして兵を善くし旬年ならすして土佐を一定し尋で又四國を一統し後豐臣秀吉の爲め阿讃豫三國を沒せられ土佐ー國を封與 せられた、天正十六年元親城を大高坂城に移した。

城の起源

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