城の構造

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第三章武家美術時代

第二節建築

二、城郭建築

岡豐城はかくの如く長曾我部氏歴代の居城にして岡豐山の天險を利用し前は國分川を控へ後方は山岳重疊し要塞堅固であつた。當城の一時盛なりし時は秦家の子弟重臣山下に雲集し山々谷々には巨館、宏邸櫛比し其の繁盛一都會の觀をなした現今その趾を見るに小野部落には元親の次男香河五郎次郞親和の邸跡があり、蓮如寺には元親の客侍蜷川新左衛門道標の邸跡があり、岡豐山北方の北谷には秦家代々の墓あり城跡ば境域頗る.'廣濶にして牙城の跡髣髴をして現存してゐる。.その、城.は秦氏が亡びたる後約ニ百六十餘年間山内氏の直轄にて女竹やすやす竹が密生せし爲め誰もその構造を知るものなかりしを明治初年同地の西田竹馬氏の父が買ひ始めて城跡に入り調査せし結果を記せば同诚は本丸、ニの丸、三の丸御厩の床の各部に分れ現今の忠魂碑の所は三の丸の御廐の床に當りそれより東方の最も高き臺地が本九にて廣さ約五反餘の面積をなし現今瓦の破片や海の眞砂出づ、本九の北端に最も高き所に岡豐城の守護なる八幡宮を祭りし跡なる八幡床ありこれと併べて寺の跡なる床あり濱の眞砂を多く入れてあつた。その神社は即ち現今の岡豐八幡宮である、本丸よりニ間低き所を取卷きて東西南北に幅約五間の土壇が輪の如くなつて殘つてゐる。之は圓錐形の山の頂上の本九を高くする爲めに周圍を堀り立てて其の土を以て本丸に盛り上げ其の跡に無者走りや多聞櫓を設けたものであらうこれを腰曲輪といふこの腰曲輪即ち外輪の北に長方形の水溜があり現今も水がある、其東方に井戶があつて此井戶より眞東に下れば岡豐小學校に達する、此井戶より六 百年より古き國分寺より出でし如き布目瓦に等しき瓦を出したることがある、ここ又三百年以上 經し古松があつたが落雷でかれた、本丸の南に五反餘りの面積のニの丸があつて次にニの丸の坪があつて次に三の丸が西にある三の丸は即ち忠魂幕地の處であつて元親の御厩あとも茲にあつた。大手門は岡豐城の西南下にありて現今も大手の名稱が殘り門の土壇が殘り約一間幅の道も殘つてゐ る。本丸より南に下り西に向ひし所に五反の廣さに近き台地があるがこれも三の丸であらう、その方にこもり屋敷があつた、石垣や石は何れも國分川の常通寺島より通せる川普譜に用いて現今殘つてゐる尙城へ上る道路は南面にもあつた。

城の起源

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