姫野城由緒

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第三章武家美術時代

第二節建築

二、城郭建築

姬野城は高岡郡下半山村姬野々土居にあつた。津野氏の居城である、津野經髙土佐に来り半山土居を治めて居り子孫連綿として家門次第に繁昌した、南北朝時代にはその支流に佐伯經貞ありて武家方の勇将として軍功を建てたことが古文書にある。津野氏は須崎城を支城としてゐたが戰國の末葉 津野經高より九傅して春高に至る、春高光高を生む光高好學多才甫めて十七上洛して将軍足利義敎に謁する命に應 じて詩を賦し將軍の感賞を受け直に奏して備前守に任じ正五位に叙せらる子元藤を經 て孫元實に至る、元實は形部少輔と稱す津野氏歴代中の名將にして永正十四年四月十三日一條氏の將たる安並出間等と戶波の惠良沼に戰いて戦死した、そめ後勝興の時天正六年秦元親に逼られの三男親忠を迎へ養子となし津野孫次郞と稱せしが、慶長五年親忠故ありて自殺し城廓も又廢るる に到つた。

城の起源

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