朝倉城由緒

トップページ高知県の観光高知県の美術第三章武家美術時代>朝倉城由緒

第三章武家美術時代

第二節建築

二、城郭建築

朝倉城は朝倉村西方の小山に築かれたもので本山梅慶の城である、梅慶は實名を左近太夫茂宗と云ひ長岡郡本山の城主である、豪邁にして善く兵を用い天文中土佐吾川ニ郡を併合し勢カ一時國内に震 ふた、その當時自ら朝倉城を築き之に移り男式部少輔茂辰をして本山に居らしめ天文廿四年に歿した、茂辰父の跡を繼ざ又自ら來つてこの城に居る、永祿三年秦氏と難を構ふや元親千騎を率ひて 來り攻めた茂辰亦千騎を以て應戰し軍遂に敗れ茂辰城を燒きて去り後遂に亡んだ、之を朝倉合戦と云ひ今尙山上に城濠石壇の跡が各所に殘りその境域が廣く井戶など趾もあり要害堅固にして當時激戰の跡が想像せらるる。

城の起源

トップページへ戻る  高知県の観光へ戻る 
高知県の美術へ戻る