浦戸城の構造

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第三章武家美術時代

第二節建築

二、城郭建築

その構造は三面海 に面し本丸に登るには北より登る道ニつ、東より登る道一つ南より登る道ーつ西方より登る道三つあつた、本丸は東方の最高地.にあつてニの丸、三の丸は西方の高臺にあつた、現今の地形につきて云ふと本丸は浦戶燈臺の北方高臺に當り廿間四面のニの丸と本丸との間の三の九は浦戶小學校東隣 の高臺に當る、本丸内は五十三間四方の地域を有しその構造は東面四面南面に堅固なる塀を廻らし南面は特に要害の爲め石壘を三段に築いてあつた。井戸は本丸の中央に一ヶ所南端にーヶ所あつて南端のものは現今にては埋れてゐる。そして本丸の最も高き部分に五間四面の天主閣が設けてあつ た、その天主閣は三層であつて瓦本葺の千鳥破風入母屋造にて最上層は高欄を設け緣をつけ數奇を凝してあつた。後に高知城の丑寅に持來つて丑寅の櫓としてあつた。本丸の西方三の丸の北方に稻荷を祭る、その西側は天正地檢に稻荷森詰て一所七代と記してある。又稻荷の東側は秦氏の屋敷即ち濱御殿の.跡である、又本丸の東麓には堀があつた、今も殘つてゐる、この浦戸城の建築はその一 部分を高知城に移してゐる又其古木を高知城の各部分に用いた卽ち浦戶城の裏門は高知城內の庭 御門として建ててあつたので其の門の破風の懸魚の絞は丸の內に蔦であつて。その紋は秦元親のか へ紋であつた。この門は天保年間までありしを自然朽減により改築した、又高知城の西大門の番所 は三間に五間にて上の間十疊御床ニ疊次の間八疊茶の間四疊納戶三疊土間三疊柱丈高く天井も鴨居より高く弓を引きて悶へざる様になし屋根は枌葺にて空に水溜あり誠に古代の作りであつたがこれは浦戸城の大手門の番所なりしものを慶長八年に山内一豊が移して建てたものであつて文政八年 築する迄で此建物はあつた。また浦戶城の天主闇は高知城の三の丸の丑寅の櫓として建ててあつ て高襴つきの數奇を凝した點より考へると浦戶城は宏莊偉麗なる城廓であつたことが豫想せらるる 然るに今やその城趾は寒烟野草に閉されて見る影もないのは洵に感慨に堪えない。

城の起源

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