高知城の由緒

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第三章武家美術時代

第二節建築

二、城郭建築

高知城のある地につき上古に於ける由緖は文献の徵すべきものがないが鎌倉時代終に及び始めて顯 はれてゐる、それは後醍醐天皇の.嘉曆ニ年十二月十六.日の日附ある古文書にて土佐國立山社の地頭彥太郞宣通が大高坂左衛門太郞助貞と伊勢房隆秀と共に大高坂鄕内にある立山社の神田一町を押収し年々神用米を抑留せしことを公義へ訴へ出でてゐる。この助貞の子孫が大高坂鄕の八幡山に城を 築いてゐたのが南北軿時代の大高坂城であつて大高坂長門守、大高坂權頭、大高坂松熊丸等前後して相續ぎ在城し北朝方の敵壘安樂寺城に對し或は攻め或は守り遂に攻陷せられた而して天正十六年元親岡豐より治城をこの所に移し三年ならずして浦戸に移りたることは前述の如くであるが秦氏の 此の地に築城の狀態は天正十六年の地檢帳に現はれ北の大門の上、東門の入口、弓塲屋敷、大門の 下、大天主の下、西大門土居前、一の坪、ニの坪等の小字があつて略ぼ其の.規模の如何を髪髴し得ることが出來るが其の規模は大でなく後世のものよりも小であつた、秦氏が浦戶に移城した跡は畑地として使用し又僅に寺社墓地も存せし如く後に山內氏築城に際しては地均しに當つて墳墓を發掘 し秦泉寺山に改葬した、古墓の存せしことは南北朝時代の古戰塲たりしことにも依るであらう、往時の下屋敷卽ち現今の高知縣廳のある塲所よりは文.政年間に至德の年號を刻せし供養の石碑を堀出せしことがある、其他城內諸所より石地藏や五輪塔を發掘した.ことが舊記に散見してゐて古來幾多 の變遷してゐる。若し山內氏が築城せざりしならばこの大高坂山は墓地と畑と淼とになつた事は小高坂山や潮江山の如くであつた事であらう。

城の起源

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