高知城の築城

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第三章武家美術時代

第二節建築

二、城郭建築

然るに慶長六年丑の春山內ー豐入國して浦戶城に居り城廓修築七ヶ年間の顧出を幕府になし慶長六 年六月に許可を得てその秋大高坂城の城墟を相して築城を開始した築城奉行は老臣百々越前及其の子の出雲で父は五十四歲にて子は廿三歲の時にて木部茂兵衛、山田久兵衛、由比五佐衛門を普請 奉行とし、慶長六年九月にエを起した、安行はその出生地近江國犬上郡百々村なりしを以て氏となす、初め織田信長に任へ本能寺變後秀吉の命により信長の嫡孫秀信の使となり岐阜城に入る、関 が原の役後に譴を蒙りて京都に蟄居し後宥され山内家に抱へられ土佐に來り安行は知行六千石、子出雲は知行千石にて合せて七千石を給せられた。安行は戰國時代に稀れなる實に用意周到なる 天成の築城家であつた。築城の模樣は木材を初月、秦、一宮諸村の山林に伐り取り、石材は浦戸城を取り毀ち舟にて運び初月、鴨田、潮江、朝倉城は各所の敗壘等より取り集め瓦は大坂より回 漕し、職工も又多くは大阪より召し集め人夫を使役した。而して越前父子の役を督するには軽 装して自から鍬を取り衆に率先せしといふ、諸士は老幼を分たす工具を揚へ木石を運び、土砂を荷擔し就中幼者は砂石を袂にするもあつて工夫の總數一日に約一千二三百人であつた。月明の夜は燈を加へて尙工事を急がしめー豐公にも隔日に浦戶より來りて之を巡視したが當時は秦氏の遺臣やー揆のエ事に紛れ異變をあぐを恐れ鹽崎、宇津の山に警卒を置き烽火相變ずることとな し野中玄蕃、市川大炊等と同一の裝をなし六人象と呼ばるる微服をなしたとのことである、地 堅の際には上下老若に踊を命じ陣太鼓に和して拍子を取り家老までも出て踊り時に酒粥などを馳走 とした、そして慶長八年八月に至り本丸、橋廊下と太鼓櫓とニの丸共に略竣工したるを以て八月一日一豐は浦戶より入城した、諸士の妻子はその入城のさまを城外の大達にて謁を-賜ひ即日本丸にて祝宴を開き宴酣なるに一豐小謠を謠ひ家老以下同聲にて之に和した、就中眞如寺在川和尙は蟾螂の眞似をなし坐興を添へた、それより數日の間城頭高く旗幟を飜し太鼓櫓にて太敕を打ち火銃を餐 して大に威勢を示した、而してその後三の丸以下の工事を始めたが三の丸は地盤に缺陷ありて土を中高坂に取り之を補填した。之が爲め中高坂山は毀ち盡して只櫻馬塲の舊圓满寺境內に小丘を殘すのみであつたが明治維新後に更に小丘も他を埋めるのに取除かれた、而してこの城は兩河の間に介在するを以て長濱雪蹊寺の住僧月峰に命じ河中山と命名せしが後洪水の害多く忠義の代に慶長十五年竹林寺の僧空鏡に佳名を選定せしめたのに文珠の淨土に因みて高智山と改稱した、慶長十六年三 の丸の工事全く成る、この三の丸及び其他の內家には浦戶城の古木を使用せしこと少くないかくして牙城高く本丸に聳えニの丸、三の丸の兩廓大厦棟を比べ之を連絡するに長廊を以てし樓櫓相望み石壁峭起し數個の莊門其の上に魏立し最偉觀を極めた。

城の起源

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