高知城の焼失

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第三章武家美術時代

第二節建築

二、城郭建築

然るに寶永四年十月四日地震にて大手門石垣ニの丸曲輪の垣、三の丸石垣、等が崩壤し國主より幕府に屈け後修繕したその後にこの城は元祿十一年の大火に城內下屋敷及び太鼓丸(現今の縣廳及び花月亭)まで延燒せしことありしも百ニ十餘年問事なきを得たるが慶長年間に造營せられた高知城の構造は如何なる規模であつたかと云へば後世のものと殆んど同樣であつた、元の建築は亨保十二年二月朔日に城西の越前町より火を發し西風にあふられ西大手門より八幡宮を飛越て上下乾櫓へ燃え移り三の丸、ニの丸、本丸鐵門、丑寅の櫓、本丸納戶藏二の丸納戶方、仝茶藏、杉段長崎藏、同役所、新庭亭,.射塲亭等を全燒せしめ燒.け残りたる主なる建物は、追手門、西の口大門、城內櫓三ヶ所、廊下一ヶ所、門六ヶ所、屋數ーヶ所、等であった。

城の起源

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