高知城再建

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第三章武家美術時代

第二節建築

二、城郭建築

それで享保十四年三月幕府の許可を得たれば奉行深尾帯刀を城普として同年の五月に高知城の再築に着手した、仝月十ニ日藩主自らニの丸跡に出張して釿初の式を行ひ更に孕山、浦戶、諸木の三ヶ所に石取場を設けて石材を採った寬保ニ年漸く建築エ事を起して 同三年九月先づニの丸の立柱式を行ひ五藤外記蟇目の役を勤め、後又三年を經て延享ニ年七月ニの丸落成して諸士の參觀を許し藩主豐敷公移りて茲に住した、此の年の仲秋に公は左の和歌を詠じて 自ら祝した。

秋はもなか月は今宵を此の宿に 千代の初と契りてぞ見る

其の翌年本丸の工事を起し後四年を經て寬延元年再建成就し、翌年又三の丸の工事を起し四年を經て寶曆三年十一月に再建し終り茲に於て燒失後に二十五箇年を經て再び輪奐の美、宏莊の雄、始めて舊觀に復した、本丸の竣功は昭和ニ年より百七十九年以前にして今の懷德舘、咸臨閤は此の時の建築で爾來大小數度の修繕を加へたるものである。當時德川幕府の方針として諸侯の治城改築に際しては絕對に擴張し改造することを許さず嘗つて寬永九年の頃忠義公城內獅子の壇に駒寄を建てしこと幕府に聞え一問題を惹起し江戶詰の守居なる柴田覺兵衛を召し訊問あり方辯解して漸く大事 に至らずして終つたことがある。幕府は城廓内部の改築は在來の通りの改築は許可するも動もすれば天守閣の改築には干渉して容易 に之を許さざるの風ありしかば土佐藩に於ても大に憂慮し若し檢使來國し咎むる時は火炎の時に當り家中の若侍其天守を擔ぎて久万村の芝生に移し鎭火後に爯び元の位置に擔き復せりとの辯解をなさん內議を定めたりといふ、されば再築後の高知城は舊城より劣るとも决して勝ることはなかつた而して憂長年間に建てた城廓内模模はその一部を齋藤唱水の手記によつて知ることが出來る。

城の起源

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