高知城に関せし日記

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第三章武家美術時代

第二節建築

二、城郭建築

唱水は江戶の人元祿十六年藩主豐房の召に應じて來り能役者にして謠曲に精しく國學者であつた本町に居り廿人扶持を賜ふたが高知城に伺候した其記事を拔翠すると『六月十三日上畧夕方御城へ昇るベき由御仰下りて申の中刻さがり出足す此の御城は山城にて遙に見上らる腰掛より下乘の大門に入る迄平地なり、威儀堂々として勢高し門を入り石壇を遙るばると上る此道けはし本丸は左の方に天主高く差し昇り高欄有りニの丸に常の御所を構ふ御玄關を昇り暫く憩ふ云々、十四日中畧、御表の御門よりは上り坂老の身如何と御いたはりありて西の御門より出入許すベの御仰の由承りて道は故無き人は通はぬ所を他國より來れる者に御許しある事御惠は如何ばかり、辱くこそ實にもおかし坂道もゆるやかにして明くれの通ひも心やすし、昇れば右の方に鎭痤八幡宮拜殿淼の中に嚴めしうすせうに立給ひ扨は御藏とも見ゆ、十六日已の上刻三の丸へ出づ、本九は見ねばいざ知らずニの丸は御在の所なれば內々までも御膳の具もそなはり臺所のしつらい世の常の如し、又三の丸にも同じ事少しも變らず廣間をさし窺けば外椽押し廻し敷板は廣く張臺にはあげ卷糸弟太く懸らる、必ず大貭本城の床にはある者と見ゆ何れも残らず金張に極彩の絵さまざまに描けり、此の箔の色むさし色にて當世には稀なり、大廣間何れの諸候の居城にも劣るまじく見ゆ、四方の張付け残らず金なり、光り輝くこと大方ならす、天井は野山の靈木、柱も椽も同じ白木作りにて詞も及び難くいづ方にも類なきさまなり年始より何事の式も當城にて諸士を集めらるるは此の所なり。今日も嘉祥の祝とて家老の面々物頭等多くの出仕いと嚴重なり云々御式濟みて人々止められ奧の間にて家老の面々物頭列座何にても物讀み申すべき由にて御壽の爲め田村の諷を講ず事濟みて後御居間を始め彼方此方を見しに何所も同じく金張付の極彩色所により墨繪有り風呂屋へ入見れば世の常奥座敷にも斯樣の結構は有るまじニ階へ昇れば其の作りさま高欄より始めさながら唐作りの如し行きては見ざれとも唐内裏はかくそあるべき何れも金作りなり、方々見渡され眺望類なし下へ下りニ度廣間に出でて下より高知を見渡せばまのあたり見下さる、山つき川流れ民家連り田畠限りなしー瞬に見廻せばー城に一國を占めたる裝ひ威勢ことはりにこそ、扨臺所に廻れば茲ばかりも一城の如く事たりぬ、夕方御城の內馬塲殿へ召連れらる。泉水、芝野石のさま奇麗に御馬見所尙きらびやかなり、茲にも御茶湯所あり御厩もあり御馬五六何れも名ある逸物裝ひ云ひ盡し難し云々廿一日には夕方御花畠亭へ御供申し近頃見し馬塲殿も此の御亭も城の內ながら麓の方にあり此の庭芝野廣く靑々と見渡され、池 の心も同じく腰掛茶屋も凉しくはあれど總て今年は暑さ堪え難く日本國中一つらに近き比類なき夏の日暮し難しと云ひ觸れぬれば當國も其の如く分きて今宵此の芝野も風の跡もなく草もゆるがぬ折なれば夕暮れ汗流れ肝消ゆる如くに縮まる外の家ならましかば立ちゐも苦しかるべきにさすが廣きしるしにや夜に入りぬれば池の面凉しく御亭へも風吹き入る此の亭は馬塲殿よりは勝手廣く緩やかなり、かりそめのおましもいと淸らに戸障子窓床迄でもさまざまありてー樣なり板はことごとに目もぅつりて記し難し云々と。

城の起源

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