高知城内廊
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第三章武家美術時代
第二節建築
二、城郭建築
高知城の內廓は約十六町ある。內堀を三面に廻らし北は江のロ川にて外廓のままなれども石垣を高くし西は帶屋町上一丁目裁判所東側より北へ高知刑務所東側を經て江のロ川に通ずる廣さ十ニ間の堀を以てし南は帯屋町上
一丁目と同ニ丁目の間を東西百八十間を一直線に廣さ十二間に堀りたてて内堀とし東方は帶屋町三丁目西端より北へ藤並神社の所にて東へ折れ更に北へ掘り江のロ川の土手
際なる北門まで內堀が續いてゐた。寬文年間の城廓圖によると北門の所にて更に東西に長き掘があるが後世の圖はその小なる堀がない、蓋し高知城は天下の雄藩の城として小規模になつてゐのは一は地勢が之を左右したであらうが他の理由は築城に當りて他の諸藩は外廓よりエ事を始め外堀を廣大にし外廓に力を入れ要害堅固とし幕府より許可せられたる期限に達して尙內廓の工事や城櫓の建築をなし修繕普請等の名稱にて工事を繼續し宏莊なる築城をなしたのに反し高知城は幕府より許
可せられたる七ヶ年の期間に本丸、ニの丸、三の丸等の內廓の工事を先きにし外廓に力を入れず幕府の命に從ふことを努めた爲め大規模の堅城とはならなかつた。然し高知城は德川時代に於ける築
城法に基きて其の設計に對する周到なる苦心が竭されてゐる。
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