築城法より見たる高知城

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第三章武家美術時代

第二節建築

二、城郭建築

高知城を築城法により見てその要點 を列擧すると凡そ築城の第一要件は其の地勢を考察して敵の主力をその城に對して何れの方面に受 けるかを洞察して外廓内廓を定め堡壘を築かねばならぬが慶長年間にあつてはこの城は北は江のロ川、南は鏡川の障害あり。然れば地勢遠く開け大軍を集中するに便なる東北方なる山田町方面は阿波街道にも當るを以て敵がこの東北方面より襲來するものと想定し防備の主カをこの方面に注ぎ其の外廓の土手を高くし殊更に松樹を植え廿代橋の南方に地域を少しく殘して堀なく元與力町の東端蓮池町より南方は外堀 とし堀を深くしてあつて山田橋の南に方形の廣小路を設け升形と呼んだ、これは桂井素巷の日記にも見えて居るが升形とはー朝有事の際に軍兵の勢揃ひをなし出發する武者屯 にて容易に軍兵の人員を量り知ることの出来る事になつてゐる、茲には往時番所もあつた、而して農人町の東端にも番所があつたけれども農人町方面には內海があつたから大軍の前進は不可能で単なる警備に過ぎなかつた、更に西方伊豫方面より襲來する敵に對しては高知城の西南方面に防備を施し現今の高知市升形を有事の時にその方形なる所に軍兵を屯集し勢揃をなし其の人數を量る爲めに設けその南北に外掘を深くし東岸に土手を高くして守備を堅くしてあつた。然して高知城下の町々の區割を定め街路の方向を决定することは城廓の守備の機密に基きて决定すべきものにして築城を百々安行が計劃すると同時に城廓の守備の方策に基きて安行がこの町の區劃を定め道の方向をもー定し塲所によりては敵がー直線に前進の出來ない袋町を作つてある。次に築城の第ニの要件は地形上に於て南低く北高く南北へ長く東と南とに流れあるを最も理想とし山城なる時は陰山を排して陽山を取り若し止むを得ず陰山を採用の時は山の一部分を掘りて陽山に改めた地形と地質とを選まねばならぬが高知城は南高く北低く築城せられてゐる。第三には城の周圍に繩張をなし定むるに小さく丸く取るを法とした。若し大なる城の時は小勢を以て籠域をすることが困難であるからである又長方形の地形を排して圓錐形に近き城を適當とした。それ.は圓錐形なれば側面からの展望伏射が自在で摒の內側が丸く廣く使用する面積上の都合がよいからであるが高知城は地形が大体圓錐形をなしてゐて築城法に叶つてゐる。第四には城内の石垣を築くに何れの部分もその平面形を単純なる一直線とせず石垣を殊更に築き出して屈折を多くし升形を作るのみならず橫矢屛風折や横矢角落等の多角形の曲折せる部分を作り其の屈折せる石垣を敵が攀ぢ登らば橫矢を用ひ惻面より射擊の便なる計画とすべきであるが高知城も三の丸、ニの丸等外輪の石垣の平面形が屈折多く多角形をなし記の築城法に叶つてゐる。第五には本丸とニの丸との間を掘り割りその土砂を盛りて本丸の地盤を高くし石垣を築き土砂を利用することに努めねばならぬが高知城も|本丸と二の丸とを掘り割りその土砂を利用し橋廊下を渡して本丸とニの丸とを連絡してある。而して橋廊下の內には必ず引橋を施 すのが當時の形式であつたが高知城にも橋丸下があり北側のニの丸に引橋を設けてあつた。第六 に本丸は陽の部分にニの丸、三の丸は陰の部分にあれば要害堅固どされてゐたが高知城はその要件に叶つてゐる。第七には東西南北の城門の入口には必ず方形に石垣を繞らしてあつた、之は一種の升形にて的土馬出しとも呼ばれ高知城の大手門。北門、西搦手門はこの形式にて入口の見付には門なくして石垣とその右側若しくば左側に門を設け遠距離より箭銃の使用されぬ計劃とし更に城門に迫る敵を三方面より夾擊する計劃としてあつた。第八に高知城は築城法上から現今の藤並神社の所は南と東と北との三方面は內堀となり長方形の地盤が堡壘となり東方へ突出せし堡蠱の地形をなしてゐるのであるがこれはそのプランが袖の形をなすにより袖升形とも呼び正面と側面との方向に何れにも射撃に便にしたものである。第九には凡そ城の本凡前下方には城門に近き部分に馬出と呼ぶ城門外に突出せる堡壘を設け守備を堅固になすべきであるが高知城の追手門と城南の門との間なる御厩と馬塲の所は現今の縣公會堂の建物の所なるが地形東南に突出し辻馬出と呼ぶ築城法の形式を具備し大手門と南の城門とに迫る敵の來襲に對して正面と側面より射擊の便にした堡壘となってをる、而して下屋敷即ち現今の圖書舘前の內堀の曲尺の如く屈折せる地形の部分を坪升形と呼び側面より射撃する便を計った堡壘であって築城法上にて橫矢廓の形式を備へ本丸を守備せん爲め南の城門と西の大門との間にありて西南へ究出せる點より見れば西南方向の守備の堡壘で辻馬出しをなし てゐる。

城の起源

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