追手門
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第三章武家美術時代
第二節建築
二、城郭建築
初め山內一豐が高知城を築くに當り追手門を建つる位置につきニ案あつた、當時關原の役に西軍に與せし豐前小倉城主毛利壹岐守吉成はかの大戰後山內家の預りなり居りしが吉成は武道老功の士
にして築城の事にも精しく大高坂城の普請に關して種の良案を進め大手門を西に開き菩提寺を北山に構へることの自然に叶ひたることを提案した、然るにー豐の弟康豐は之に反し菩提寺を面の筆山
に構へ大手門を東に開くの要害なるを唱へた、ー豐は後說に從つて追手門を東に建設した。然るにその門はニ代忠義公の時寬文三年に崩れたるにより寬文四年十一月十九日に爯興してゐる、その時の總奉行は渋谷長右衛門、橫目、一木權兵衛、普請奉行竹崎與兵衛、大工方は加藤治部同六兵衛等であつた、この門の方向が東面せず南面せるは一は要害の上より他のーの理由は幕府が東面を許さなかつたと傳えらるる。その門內は武者屯なれる桝形となつてゐる、現存せる追手門の建物は昭
和ニ年より百二十六年以前の享和元年士一月四日の改造にて現今にては腐朽してゐる
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