高知城の廃毀
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第三章武家美術時代
第二節建築
二、城郭建築
かくて慶長十六年以後明治四年まで二百六十年間土佐二十四万石の治城たりし高知城は明治四年廢藩置縣の時に及び豐範公が城中を退去して散田の私邱に入り明治六年に至り本丸以外のニの丸、三の丸の塀や櫓を殘して表御殿、奥御殿等を毀つこととなりたるがその大部分は枌葺にて屋根裏は全 部銅板葺となつて雨の絕對に漏らぬこととしてあつた、仝九年に及び本丸と大手門を殘して櫓や摒やその他の附屬物を賣拂つたので現今にては本丸の建築は太皴櫓と多聞と本丸ーの門とニの門とを除きて其他は全部現存し保存せられて南國唯一の偉觀を呈してゐるが今後永久保存の必要がある。
