久礼田城跡

高知県の観光名所

トップページ高知県の観光高知県の城跡>久礼田城跡

南国市久礼田

久礼田氏の先祖は、長宗我部氏と同じ奏氏であると言われ、長宗我部氏三代忠俊の弟忠幸が分かれて久礼田に住み、久礼田氏を名乗ったのが始まりとされているが、定かではない。築城年代も不明である。しかし城跡は往時のままに残され、中世の山城の原型を今によく伝えている。元親の時代になって久礼田城の城主として久礼田定祐が登場してくる。久礼田定祐は、元親とは一族の間柄でもあり、元親の信頼も厚く重臣として活躍したことがうかがえる。長宗我部地検帳によると、久礼田氏は、四五五筆 三九町六反二〇代四、五分 の土地を給され、久礼田村の検地地積七〇町のうち過半数を領し、近隣にもかなりの土地を所有している。また定祐は「土佐物語」や、「元親記」の中に連歌の上手、和歌の達人とも記述されている。長宗我部元親は、天正二年(1574)土佐一條家四代兼定を豊後に追放したのち、その子内政を大津城に迎え、自分の内政の妻にした。そして大津城で政親が生まれた。のち天正八年(1580)の波川玄蕃による謀反に加担した疑いにより、元親は内政を伊予に追放した。元親は一条家の家督をついだ幼い政親を久礼田定祐の一族に養育させた。母と共に久礼田に移り住んだ政親は「くれた御所」と呼ばれた。館は現久礼田小学校の敷地、中の土居と呼ばれるあたりだったと伝えられている。政親は慶長五年(1600)長宗我部氏の滅亡によって、二十年を過ごした久礼田から京か大和に退去したと言われているが、消息は不明である。久礼田城の歴史と共に土佐一条家もここに消え去った。久礼田城は標高168mの山頂に、卵型の相当広い詰めの段があり、その西と南に狭長な腰曲輪がある。さらにその東から北にかけて、空堀や堀切が確認される。詰の段の下には二の段が築かれ、共に塁跡が囲んでいたとおもわれる。久礼田城は、詰を中心に部分隔が隣接する連立式山城で、中規模クラスの相当堅固な構えであり、戦国動乱期には本山氏の南進を拒む重要な役割をになっていた。久礼田寺山の在天寺跡の近くに久礼田定祐夫妻の祠が残されて、位牌が安置されている。定祐の位牌には 天正六年二月十三日卒去 戒名法号「在天定祐禅定門」と記されている。

久礼田城跡

四国の観光へ戻る  高知県の観光へ戻る 
高知県の城跡へ戻る